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Month: April 2008

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論5:信長における評価指標 – 2

    信長は槍の改良、鉄砲製造方法の改良、鉄砲の欠点を補う使い方システムの完成などで技術評価システムに対する概念がほとんど固まって来ていた、それらの考え方を集大成する事になったのが、有名な鉄甲船の建造であった。 1576年、一向一揆の勢力が立て篭る石山本願寺に戦略物資を送り込もうとしていた毛利水軍800隻を木曽川口で待ち受けていた織田水軍300隻は、銅製の球に火薬を詰め込んで火を点じて相手に投げ込む大型の手投げ弾・焙烙火矢(ほうろくひや)の威力にものの見事に蹴散らされてしまった。 しかしこれに引き下がっている信長ではなかった、このすぐ後、当時の伊勢の海賊大名九鬼義隆に当時の安宅船に対して投影面積でも4倍も有るような新しい大型軍船の建造を命じ、わずか2年の間に6隻もの全面を2~3mmの鉄板で装甲した鉄甲船を建造させた、そして前の惨敗から2年後の1578年、同じく木曽川口にて600隻の毛利水軍を6隻の鉄甲船と小船の集団で待ち受けていた、その鉄甲船の装備はそれだけではなかった、箱造りの船首には巨大大砲が3門備えられ船腹には無数の銃眼が並べられていた。 戦いの結果は明白であった、最大の武器の焙烙火矢を全く受け付けず、かつ近寄っては船首からの巨大大砲で撃ち砕く戦術に毛利水軍はひとたまりもなくほぼ全滅の憂き目に遭ったのだった。 この信長の戦術は決してすぐに完成したのではなく、かなり以前から色々と実戦で試されテスト改良された後の産物であった、大砲に関しては1570年に彼が攝津の三好勢と野田/福島の砦で戦ったときも「数多くの物見櫓を建て、大砲を城中に撃ちこみ敵を攻めつけた」と信長公記に伝えられている、またさらに1571年の竹生島の浅井攻めでは琵琶湖に大砲の装備を付けた「囲い舟」なる船を登場させて、従来の大砲の弱点である移動性の悪さを克服し、ついで1573年に琵琶湖で長さ30間、片側100挺櫓の大型船を建造させているさらに1574年の長島一揆では数百隻の船に大砲を装備し撃ちまくったとの記録もある。 また大砲の製造法に関しても、鉄砲で得た鍛造法による砲身の製造法を応用し、当時の流行であった製造は容易だが強度的に不安のある青銅製の製法に代えて鉄製の砲身を作成していた、これにより当時としては画期的な鉄砲の弾の33倍もある750グラムの砲弾を打ち出す事が可能となったのは優れた製造技術の大成という事が出来る、しかし鉄甲船に積まれた大砲は正確な記述はないが後に家康が作ったとされる大砲(靖国神社蔵)と同等弾丸は4kgだったと想像される、いかに巨大大砲であったかがわかる、それは1574 年にすでに長島一揆で大砲が船に積まれていてそれを最初の毛利水軍の時も使われたが効果が少く惨敗の憂き目に遭ったので思い切って巨大大砲としたと推定される。 また鉄甲船に関しては西欧諸国で鉄板を装甲として使い出したのは17世紀とされているので100年以上も前に採用しているので驚異的であるが、大型船に関しては宣教師オルガンチーノから母国オランダの情報を得ていたとも言われている、そしてそれらの下地も琵琶湖を始めとした3回の海戦で得たノウハウが蓄積され改良されて集大成となったという事が出来る。 一説によると第二次世界大戦の戦艦大和もこの分厚い鉄板で守るという思想で作られたとあるが確かではない。 これを技術評価的に整理してみると、、 ニーズの掌握(情報の収集)――宣教師より大型船(ガレー船)の情報、火砲の重要性 ↓ 現状分析・把握(三好勢と野田/福島の砦)――船は必要だ、大砲は移動にお荷物だ ↓ 試作とテスト(問題確認と対応策)(竹生島攻撃)――船での大砲は移動性が良い 大型船の建造テスト ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(長島一揆)-大量投入による効果確認 ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(毛利水軍にやられる)-火器が弱い、 装甲の必要性、大型化が必要、破壊力の増大 ↓ 最終モデルの完成(鉄甲船の完成)――毛利軍に大勝  と分類整理できる。 また信長の偉大な所は武士の指導を任さず、現代の物の製造になくてはならないスペシャリストを導入している事が大きなポイントである、鉄砲鍛治にしても近江の国友鉄砲鍛治に全面的に任せ、鉄甲船の建造も当時海賊だった伊勢の九鬼義隆をプロジェクトリーダーとして登用し作らせたとあるが、彼の元には船の専門家である大工・岡部又右衛門がスペシャリストとして存在し製造技術は任せていた、この様に全てを任せてやらせる事は現代では当り前だが当時としては画期的な仕組みであったのだ、すなわちプロジェクトリーダーの下に個々のプロジェクトスペシャリストを配置しそれらの総合開発力を発揮している、もちろんLPL(Large Project Reader)は信長自身であった。 信長の技術評価システムの大成例は鉄甲船だけではなく、城の築城にも見られる、信長が残した安土城は余りにも有名であるがここにおいても前に記した様な評価システムがしっかりと存在している事を次に述べたい。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論4:信長における評価指標 – 1

    信長は大変新しい物好きだったという事は知られており、服装もキリシタンバテレンの服装やソンボレロを好んで着たり、ワインなども喜んで嗜んでいたと言われている、その持ち前の好奇心を単に好奇心に留まらせずさらに発展させて「もの」を見る目を養い暗黙に独自の評価方法を作り上げていた、そしてそれが現在多くの会社で使われている技術評価システムの根源である「物の見方、考え方、結論の導き方」の構築が既に実施されていたと考えられる点が多い。 織田信長は天文20年(1551年)父・信秀の急死で18才で織田家を相続したが、当時は大うづけ(馬鹿者)呼ばわりされる変わり者で、服装なども何も構わず勝手気ままに行動していたと言う、ある意味ではこの様な環境が個性的で創造的な気質を育てたとも云える。 最初に信長が技術改革といえるものをやったのが槍の長さである、当時3間(5.5m)しかなかった槍を、3間半(6.4m)4間(7.2m)に長くし家来どもに竹槍合戦をやらせその成果を見届けていた、そして最終的には3間半に統一しその後の戦場に役立てている。これを技術評価システム的に解釈するならば、問題点抽出→現実分析→発想→複数案試作→テスト→最終案の決定→商品化、と当てはめることが可能だ。 信長の技術革新で有名なのが鉄砲の導入である、天文12年(1543年)に種子島に伝来して以来瞬く間に世間に広まったが、信長の父である信秀も鉄砲に対する見る目が鋭く当時足軽が使う兵器であった鉄砲を橋本一巴を師として信長につけ習わせていた、信長は早くからこの鉄砲の可能性(長所)と欠点を理解し、それを最大限に発揮する方法を考案していた、可能性(長所)は遥か遠くの物にも決定的な殺傷能力を有することであり、欠点は“弾込めの時間ロス”でありさらに火縄銃の特性とも言える“発砲の遅れ”であった、その中の可能性を更に高めていったのが武田軍との長篠の戦いに於ける鉄砲の大量採用であり、後の織田水軍の鉄甲船に搭載された巨大大砲なのである。 また、欠点の一つであった“弾込めの時間ロス”を補うものが長篠における3列入れ替わりの戦闘態勢だった、しかしこの手法はそれ以前に天文23年(1554年)に今川勢のたてこもる知多半島に有った村木の砦を攻める時に自ら家来の足軽に弾を詰めさせてそれを順序良く受け取り射撃していたという記録がある、この時にすでに出来上がっていた構想を色々テストして自ら体験する事により完成させていったと想定される。 もう一つの欠点である火縄式である為に起こる“発砲遅れ”の対策は同じ長篠の戦いに採用された馬止柵であった、動きの早い馬上の人を狙うのは発砲に遅れの有る火縄銃ではかなり難しいがそれを馬止柵で馬が立往生して動きを止めているうちに射撃する事で正確性を高める様に考えられたのだった。 信長は使うばかりではなく現在のEngineering Systemすなわちその製造法にも独自な手法を広めていた。それは従来の鋳造法でなく鍛造法であった、これは鋳造の場合は形を作るのは簡単だがその芯を巧くくり抜き銃身とすることが難しかったのに比べ、通常用いられている刀の製造法を応用させ、帯状の鉄板を心棒に巻いて圧接(灼熱した鉄を叩いてくっ付ける)して作る鍛造法を採用したことで格段に生産性をあげられた事だった。 この時点で信長は彼の構想の中に技術評価の原点とも言うべきものがすでに完成されていたと言える、彼はこの時点で評価というものに目をつけ自らが評価者となっている点が面白い、現在の様に仕事が細かく細分化し専門家でないと評価が正しくされない時代と違い当時は自らが評価者となっても充分務まるレベルであったといえる。 特に信長が優れていた点は複数案の作成とテストによる確認であった、また単に出来たものをテスト評価するのでなく、その製造法についてまでも目を光らせて居た事はさすがといえる、竹槍の改造の時点ではその作り方迄には目を配ってないが、鉄砲に置いては製造法に目をつけ大量生産に結び付けている。 現在の評価システムの4大要素であるD、E、S、Q即ちDevelopment、Engineering、 Sales、Quality のうち信長は、D:開発、E:製造技術、のシステムについては完成の域に達していたのである、S、については「楽市楽座」でシステムを構築していたと言えるがここでは割愛する。 信長はその後この手法を行使して、亀甲船や安土城の築城を成功させ又、また大砲の形状等にも改良を加えているがこれ等については続く章で述べてみたい。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論3:信長を見る現代的視点

    日本は変化の時代に突入しつつある。人々を取り巻く事象は目まぐるしく変化している。さらに、事象の変化の加速化に加え、目の前に多くの選択肢が提示され、どの選択肢を選べばよいのか迷う。ますます将来への方向性が見えにくくなってきている。事象変化の加速化、選択肢の多様化が混沌とした状況を生み出し、変化の時代を特徴づける。 不透明感が増す中で、多くの人々がその方向性を見失う、所謂、迷える子羊現象(ハザマ君現象)が起こる。しかしながら、この混沌とした状況は、一方ではこれまでなかった様々な機会を創出し、活気を醸し出す。機会とリスク、不安と活気、これら相反するものが混在しながら、新たなパラダイムへと社会全体がシフトする。 変化の時代にこそ、新たなパラダイムへとつなぐ役割を担ったリーダーシップが求められる。混沌とした中から方向性をしっかりと人々に示し、機会創出を巧みに捉え、新たな仕組みや価値を実現していくリーダーである。 日本の歴史上のリーダーとして、信長、秀吉、家康の三人がよく引き合いに出される。この三人は、特に戦後56年間、リーダーシップの手本として数多く取り上げられてきた。高度成長期の秀吉、安定成長期の家康、そして変革期の信長である。戦後56年のうち46年間は高度成長期(バブル期も含むが)、安定成長期であった。 つまり、変革期と呼べるのは1955年までの最初の10年である。 ところが、21世紀になって、日本はまさに戦後初めて本格的な変革期に入っていく。信長の出番である。 変革期のリーダーとして、信長は超人気者である。 信長の場合、秀吉や家康と違って、どちらかというとサラリーマンというよりは、経営者など指導的な立場の人々からの支持を強く得ている。秀吉や家康の多くの逸話が、組織の中で生き抜くための心構えを説くのに対して、信長のそれは事業展開における原理、原則を示唆したものが多く、日々、事業の成否と向き合っている経営者層の共感を得ているためである。 戦後の日本は世界にも類を見ない効率的な組織偏重の社会システムを構築し、高度成長、そして安定成長と比較的リニア(直線的)な成長軌道の中で経済的繁栄を達成してきた。そこに求められたリーダー性とは、あくまで確立された組織というフレームワークの中で、すでに決まった方向性に向けてヒト・モノ・カネ・情報などの資源を集中させることであった。 秀吉は、信長から引き継いだ高度成長路線の上をひたすら走りぬいた。逆に家康は、朝鮮出兵の失敗を機に社会の流れが安定成長路線へとシフトする中、徳川300年の礎を築いた。ともに、ある程度、確立された体制、組織の中でのリーダーシップの発揮である。 信長の出発は「ゼロ」からというよりも、マイナスからの出発であった。信長がまず手をつけなければならなかったことは、それまでの体制、組織を崩すことであった。 そして混沌とした中から方向性を示し、新たな路線を曳いたのである。 「信長」の生きた戦国時代とは、活気と不安、機会とリスクが混在した「先行き不透明」な闇の時代であった。その中を手探りで歩きながら、様々なジャンルで、自らの才覚を頼りに各々がリーダーシップを発揮、日本のルネッサンスとも例えられるような時代を演出した。今、日本が置かれている時代状況に酷似している。 グローバリゼーション、インターネットの普及、技術革新の加速化、情報開示の徹底、情報の分散化、縦型組織の限界、市場主義の浸透などの諸要因によって現在の加速化する変化の潮流は形成されている。 特に日本においては、戦後56年、日本の経済発展を支えてきた多くの仕組み(年功序列、終身雇用、系列、メイン・バンク・システム、企業グループ、行政指導などなど)が大きく変わろうとしている。 大航海時代という世界の流れの中で、日本は戦国時代を迎えた。室町幕府の体制の崩壊、下克上という階層の流動化、農業生産の飛躍的増大、貨幣経済の普及、商工業の発展、貿易の拡大など、戦国期は大きな変化のうねりの渦中にあった。信長はこの混沌とした世界の中から「天下布武」という明快なビジョンを打ち出し、そこにすべてのものを収束させていった。それによって、天下統一の流れをつくり、次の天下人である秀吉の高度成長路線へとつなげた。 実に、信長は1551年に家督を継いでから1582年に本能寺で倒れるまでの31年間で、この偉業を成している。信長は彼の持つ果断さと独創性によってこの大事業を達成したという見方がある。確かに、信長の特徴である即断即決、強烈な実行力、意表を突いた戦術、政策の考案とその実施など、戦国時代の他のリーダー達と比較しても秀逸である。 しかしながら、それが信長のリーダーシップの本質であると見る事は、信長の秘めたリーダーシップの凄みを見落とすことになる。 新しい経済政策として信長は楽市・楽座を導入したことは知られているが、これは信長の独創ではない。近隣の戦国大名である今川義元、斎藤道三、六角承禎などはすでにそれぞれの領国内で導入している。軍事革新といわれる兵農分離にしても、当時の戦国大名であるならば誰しも兵農分離を望んでいたはずである。合議制から単独採決制への決定メカニズムの移行もしかり。決して信長の独創ではない。 重要なことは、他の戦国大名ができなかったこれらの新たな仕組みを実際に現実化したことである。 例えば、兵農分離と単独採決制の確立を例に取ってみよう。 兵農分離を実施できたのは信長の果断さによるだけではない。果断さということでは武田信玄、上杉謙信、北条氏康なども信長の人後に落ちない。また、信長は「恐怖」や「畏敬」のみで人を動かし、兵農分離に駆り立てたわけでもない。 信長の凄さの本質は、人間に対する深い洞察をベースに、緻密に計算しつくされた様々な方法で人の意識を短期間で変革、より多くの人々の納得と支持を取り付けたことである。当時としては商業が発達していた尾張においても土地本位制が基本である。その中で人と土地を分離することの難しさはわれわれ現代人の想像をはるかに超えている。「恐怖」「畏敬」「果断さ」だけでは、実施する前にとっくに殺されている。また、信長が単独ですべてを決定するという意志決定メカニズムの確立も、並大抵のことでは済まされない。当時のどの戦国大名でも領内の有力国人層による合議制が当たり前である。武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就などの他の有力戦国大名達は、譜代層や有力国人層の合議制というベースの上で、そのリーダーシップを発揮してきた。この前提条件を外すことは、リーダーシップの壊滅と死を意味した。人々に強いる部分はあるにせよ、やはり人々からの納得や支持を取りつけない限り不可能である。 1567年、美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を達成した。信長が数多くの革新的なアイデアを実際に導入することによって、それを実現してきた。その背後には無数の利害を異にした人々から納得と支持を勝ち得て来た過程がある。信長は急激な意識変革によって15年という短い時間で、天下統一という方向に実際に社会を動かした。 信長は絶対的な専制君主というイメージが強い。誰もが思いつかないような独創的な方針を掲げて、有無を言わせず無理やり人々を引っ張っていくといった印象が一般的である。「人の話など聞く耳をもたぬ」とでも言ったところか。しかしながら、信長を中心に展開されてきた49年間にわたる数々の事象は、視点を変えるとその時代に生きた人々の意識の投影である。信長の事業は、地域的には日本の中心部をほとんど席捲し、天下統一1歩手前まで展開した。いくら信長が一人で頑張ったとしても、人々の意識が彼の方針についてこれなければ、これだけの偉業は達成できない。懸命に工夫を凝らし、人々の意識を自分の想いに引き寄せようと試行錯誤し、努力している信長の姿が垣間見える。命がけの工夫である。工夫しなければ、天下布武どころか滅ぼされている。そこには、今までのイメージとはまったく異なる信長像が姿を現す。この必死の工夫こそが信長の真骨頂であり、信長のリーダーシップの本質ではないだろうか。 信長は実に繊細、かつ大胆に物事を理解する。 人間に対しても同様に敏感に相手の気持ちの襞までも洞察し、タイミングを計って大鉈を振るうがごとく自分のメッセージを強烈に打ち込む。それも徹底的に打ち込む。 人間は基本的に「変化」を嫌う。 本田宗一郎はこの人間の本質を下記のように述べている。 「50万トン級の大型タンカーが曲がろうとして舵を切っても、曲がるまでには4~5 km進んでしまう。人間の思い込みや頭の構造は、もっともイナーシア(inertia:慣性)が大きい。1回位舵を切っても、方向など変わらない。くどいほど、言って、言って、時間をかけないと、変わらない」。信長もこの人間の意識の本質を見ぬいていた。 変化が激しい時代、ほっておけば人間の意識はどんどん変化に遅れをとっていく。気がついた時には、すでに社会全体が崖ぷっちに追いこまれている。そして、それらの人々の意識は、変化や革新への大きな抵抗となってリーダーの前に立ちはだかる。変革期のリーダーの役割は、抵抗を受けながらも人々の意識をどれだけ早く新しいパラダイムに順応させていくかである。それには、人々の意識に直接働きかけ、対決し、納得してもらうしかない。しかもそのための工夫に心血を注ぐことが求められる。それも限られた時間の中で…。 日本は次から次へと押し寄せる変化の波に、待ったなしの対応を迫られている。 変革期のリーダーシップの本質は意識変革である。「変化」という尺度で、現代と類似性をもつ戦国時代に生きた信長が、どのようなリーダーシップを発揮し、自らの想いを現実化していったのか。このことを意識変革という視点で考察していくことは、リーダーシップのあり方が問われている今日、大いなる示唆を与えてくれる。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論 2:信長と銭

    信長と「銭」- この一見奇異な組み合わせは、信長を知る上で欠かせないキーワードのひとつである。信長こそが、あるいは信長だけが、並居る戦国大名の中でただ一人「銭」に目をつけ、経済至上主義の時代の到来を予想しそれをいち早く人々に知らしめたために、天下布武への階段を誰よりも速く駆け上がる事ができたのであるが、実は我々現代人にとっても、このキーワードは極めて大きな意味を持つのである。 天正3年5月21日早朝、最強を謳われた武田騎馬軍団を率いる武田勝頼は、父信玄でさえ落とせなかった高天神城を陥落させ、長篠の設楽原において、織田・徳川連合軍と対峙した。山県昌景を先方に突撃する武田軍に対し、織田・徳川軍の鉄砲3000丁(一説によると1000丁)が火を吹く…… 。「長篠合戦図屏風」に描かれる織田本陣の図を見ると、「銭」をあしらった信長軍の旗が幾つも林立していることに気付く。 信長の旗印は、当時明からの渡来銭として日本全国で広く流通していた「永楽銭」である。永楽銭はもともと「根本渡唐銭」と呼ばれ、明から輸入された銭貨である。中世日本では、国家が独自に銭貨を鋳造する事が無く、12世紀より既に貿易を通じて流入した主に中国渡来銭が通貨として流通していた。 この背景は、中国銭が「唐物」であることの価値と信用に加え、貿易や交易において中国銭が交換媒体として高い機能を持つと認識されたことにあると思われるが、信長はこの永楽銭を旗印だけでなく、刀のつばにもデザインとして使用している。 織田家の代々の家紋は木瓜紋であるが、信長が自分のシンボルとしてあえて使用したのがこの「銭」である。通常、「銭」は戦場の旗印に似つかわしくない。当時はカネより兵力、武力で合戦に勝つという考え方が基本であったし、武田信玄の「風林火山」の馬印、あるいは徳川家康の「厭離穢土 欣求浄土」の軍旗に見られるように、旗印や馬印はその軍団の哲学、信仰などを表すのが一般的であった。唯一、信州真田家が旗印に六紋銭を使用していたが、これは人間が死後「六道」の迷界のいずれかに生まれ変わるため、その入り口で一文づつ木戸銭を払うという輪廻の考え方、そして人間の殺生という罪を救ってもらえるという地蔵信仰の考え方が原点にある。しかし信長の永楽銭には、そうした仏教的色彩はない。 信長が見据えていたもの、それは一つには、永楽銭が経済の基本であり、それがあれば鉄砲、傭兵、米の調達、公家の懐柔まで何でも出来る、「銭」こそが天下をとる上で最も必要な手段であるという概念であるが、それだけではない。永楽銭の旗印の持つ象徴的な意味は、1)新し物好きの信長独特の、人々の意表を突く手段としての意味合いとともに、2)「銭」を介在とする経済、商業がこれからの戦を支配するという、新時代の幕開けを敵にも味方にも知らしめ、自らその旗手となることを宣言しつつ、3)当時ニッポンで唯一全国津々浦々まで通用する永楽銭をシンボルとすることがすなわち、自分の錦の御旗が全国に通用するという意識、信長の力が全国に行き渡り、信長こそが天下に号令するという認識をつくる事に繋がる、そうした意味までもが含まれていたのではないか。つまり、今日でいえば携帯電話あるいはウィンドウズのように、非常に便利で、世界中どこでも通用し、皆が価値を認めているデファクトスタンダードを支配する、さらにはそうしたデファクトスタンダードになるのが信長である、という意識である。 こうしてみると、信長が永楽銭の旗印を持って行おうとしたことは、人々の価値観を抜本的に変える、「意識改革」までもが含まれていることが分かる。私がかつて学んだビジネススクールでは、リーダーシップの3要素として「先のビジョンを示し、それに向けて人々を方向づけ、モチベートしていく」ことを学んだが、信長は戦国武将の中で混沌の時代にいち早く「銭」の価値に目を付け、この先のどういう時代が来るのかを「銭」によって人々に示し、そして「銭」を獲得すべく家臣団を動機づけていった、変革期のリーダーにふさわしいリーダーシップを発揮した存在であったのではなかろうか。いま日本経済は景気低迷、株価も底割れし、混沌として先が見えない状況といわれるが、「銭」にいち早く目を付けた信長のようなビジネスリーダーの登場が一日も早く望まれることだけは間違いない。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論1:はじめに

    フライシュマン ヒラード ジャパンの田中です。フライシュマン ヒラードは、コミュニケーシ ョン・コンサルティングで世界 No1.の実績を誇るコミュニケーション・エージェンシーです。 私は、日頃、コミュニケーション戦略に関する仕事をする中で気がついた事として、日本の リーダーシップ論においてはコミュニケーションを体系的に捉えた視点が欠如しているという 事です。コミュニケーションをどちらかというと属人的なものとして捉えてしまう傾向があり ます。リーダーシップとコミュニケーションとは表裏一体の関係にあります。   変化の時代のリーダーとして、昔から多くの方々が「信長」を語ってきた。司馬遼太郎、津本陽、童門冬二、堺屋太一、そして最近では『本能寺』で話題になった池宮彰一郎や『信長燃ゆ』の安部龍太郎など、それぞれ独特の視点で「信長」を捉え、変革期のリーダーとして描いている。 私自身は、歴史小説家でもなければ、歴史を専門に追いかけてきた人間でもない。私の専門はコミュニケーションである。企業戦略とコミュニケーション戦略、リーダーシップとコミュニケーション、ブランドとコミュニケーションといった事柄に関して、コミュニケーション・コンサルタントとして日々の実践を通じて研究してきた。人間社会の様々な事象の背後にあるコミュニケーションという世界を探求してきた者である。 その私が、なぜ「信長」を論ずるのか。 ある勉強会で、最近、話題のコーポレート・ブランディングの話をしていた時に、参加者のひとりのある経営者から「コーポレート・ブランディングの考え方はよくわかるが、出てくる例は、皆な外国人の経営者ばかり。誰か日本人の経営者の例はないのか」と質問された。なるほど、もともとコーポレート・ブランディングの考え方は90年代アメリカで試行錯誤の中、生まれてきたものであるから、日本人の例などまだないという思い込みがあった。日本人で誰かいないかと考えた時、咄嗟に思いついたのが「信長」である。 実は、信長に関しては、昔から個人的に興味を持っていたが、自分の専門であるコミュニケーションという観点から眺めたことはなかった。この勉強会以来、「信長」をコミュニケーションという視点から考えるようになった。 コーポレート・ブランディングの本質は、一言で言うならば、ある目的に向かって、システマチックに人々の意識変革を行い、人々の行動を駆り立てる一連のプロセスである。別の表現をすれば、「リーダシップ」をコミュニケーションの視点から捉えたものである。 人間の社会であるから、何か事を成そうと考えたとき、人を動かさない限り何事も実現しない。この、至って当たり前ではあるが、厳然とした事実を考えたとき、90年代のビジネス・リーダーたちだけが実践してきたものではないことに気づく。 人類がこの世に誕生して以来、リーダーと呼ばれる人々は何らかの方法で創意工夫し、人々を動かし目的を実現してきた。コーポレート・ブランディングとは、多くのリーダー達が実行してきたことをシステマチックに、あるいは体系的に捉え、コミュニケーションという視点からより解り易いプロセスとして落とし込んだものである。 シーザー、ナポレオン、そして信長などの歴史上のリーダーたちが、どのように人々を動かしビジョンや目的を実現してきたのかを、コーポレート・ブランディングの視点から分析してみると、リーダーシップとコミュニケーションの関係がより鮮明になるのではないか。今までリーダー論が語られるとき、コミュニケーションという切り口で説明されるケースがあまりなかったのではないか。 この際、「信長」という日本人の誰もが知っているリーダーを、コミュニケーションのアングルから見直してみると、新たな「信長」像が浮かび出てくるのではと考え、ブランディングという視点からの信長考察を始めた次第である。...