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Month: May 2008

  • (コラム)信長のリーダシップの本質1:戦略コミュニケーションの発想

    作家、藤沢周平は「信長ぎらい」と題したエッセイにこう記す。 「嫌いになった理由はたくさんあるけれども、それをいちいち書く必要はなく、信長が行った殺載ひとつをあげれば足りるように思う」 山中の堂塔伽藍をことごとく焼き払い、僧俗3000~4000人を虐殺した比叡山の焼き討ちや、男女2万人を焼き殺した長島一向一揆討伐など、織田信長は日本史上類例のない大量殺教を行っている。こうした残虐な殺戟行為ゆえに、信長には熱心なファンとともに、少なからぬ「信長ぎらい」がいるのも確かである。 信長の大量殺動行為については、稿を改めて考察するとして、「信長好き」も「信長ぎらい」も、信長を独断的なリーダーと見る点では一致する。桶狭間の戦いに見る果敢な行動力、長篠の戦いや兵農分離、楽市楽座に見る独創性、将軍廃位や蘭音待切り取りなどが象徴する専制性。強大な恐怖と畏敬によって有無も言わさず周囲を従わせる専制君主というのが、現代日本人が持つ信長像の最大公約数だろう。 しかし、と考えざるを得ない。恐怖のみによって人を動かせるだろうか。一時的には可能だろう。だが、群雄が割拠する戦国の世に、一代で日本の中心部のほとんどを席巻し、政治・経済・文化のすべてに一大変革をもたらした偉業は、信長単独の力では不可能である。そこには家臣、同盟者、領民、朝廷など数多くの利害関係者(ステークホルダー)の理解と行動が必要だったはずである。 例えば、「兵農分離」と「専制的意思決定」を考えてみよう。信長の独創と言われる「兵農分離」だが、戦国大名なら誰しも、農民と兵士を切り離し、農繁期にも戦える常設軍を創設することは悲願だったはずだ。また、譜代の家臣や領内の有力国人層に諮ることなく、自らの独断によって内政や軍事を実施できれば戦国大名にとってこれほどありがたいことはない。ところが、信長以外のどの大名も「兵農分離」や「専制的意思決定」を実現し得なかった。 戦国時代、富と力の源泉は何より土地であった。兵士たちは自らの土地を守るため、そして、新たな土地を恩賞として得るために戦った。商業が発達していた尾張にしても、基本は土地本位制であった。そうした中、兵力と土地を切り離す難しさは現代人の想像をはるかに超えている。 信長が単独ですべてを決めるという意思決定方法も、ある意味暴挙とさえ言える。武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就などの他の戦国大名たちは、譜代の家臣や有力国人層の合議制によって、領国経営を進めてきた。かつての守護・守護代を下克上に乗じて退けた国人層の頭目格に過ぎない戦国大名には、一般に考えられているほどの専制的な権威はなかったからだ。譜代・有力国層は大名と対等とはいかないが、かなり接近した発言力を有していた。それゆえ、大名といえども、重臣たちの理解を得られなければ、物事を決められなかった。逆に、彼らの意向を無視し、反発を招くばかりなら、君主の地位を追われ、殺されることすらあった。武田信玄の父親である武田信虎が独断的だという理由で家臣たちによって駿河の今川家に追放されたことなどが良い例である。 そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。 間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。 ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。 信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。 信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。 変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。 第2の要素は「ビジョンの提示」である。 先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。 この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。 信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。 どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。 信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論7:コミュニケーションと信長

    変化の時代とは絶えず、社会のパラダイムシフト(社会の拠って立つ基準の変化)が起こる世界である。しかしながら、人々の意識は変化を嫌う。変化の時代における混乱と混迷の原因がここにある。変革期のリーダーの使命は、コミュニケーションを通じ人々が変化を受け入れられるように意識付けを行うことにある。 信長は独断先行型のリーダーとしてのイメージが強く、人を納得させて動かすというよりも無理やり動かすタイプといった印象があるが、それは誤った見方である。信長ほど独創性の強く創意工夫を凝らす人間は、自らの想いや考え方を周りに理解、納得させられなければ、戦国時代においてはとっくに殺されている。 信長が家督を継ぎ、様々な革新の実現に着手したとき、目前に立ちはだかったものは、武田信玄や本願寺一向宗ではなく、変化を嫌う人々の意識であった。それらとの戦いの中で、信長は自らの独創性を遺憾なく発揮するために「コミュニケーション」を力、手段として捉え、自分のビジョンを示し、人々の意識や行動を変革するために以下のことを実践し目的を達成したのである。 1. 近習団を機能的に組織し、単に日常の秘書的な業務に留まらず、自らの手足、目、耳、そして頭の役割を担わせた。 2. 地下人層から公家、僧、文化人、教養人も含めた幅広いネットワークを積極的に構築し、それを利用して時代の流れ、トレンドを有機的に、体系的に把握することを心がけた。 3. 自身のビジョンである「てんかふぶ天下布武」を表現(コンセプト化、文章化、描写化)するプロとして禅僧のたくげん しゅうおん沢彦宗恩やかのう えいと狩野永徳、たけい ゆうあん武井夕庵など自分の想いを表現できる専門家を起用した。 4. 茶会を情報収集、発信、分析の「場」として利用し、その「場」での情報のやり取りを通して、自分に対する様々な視点からのアドバイスや情報の分析業務を行った。 5. 言語や視覚的なシンボルのみならず、様々な政策や制度を導入、多くのイベントや事象を演出、さらには伝達方法にも心を砕き、自らの行動を通じて「天下布武」の実現によって人々が何を享受できるかを訴えた。そして、それを示すと同時に実感させることに腐心するなどメッセージ伝達の工夫をした。 このように、信長は様々な情報収集、分析、発信の一連の業務を遂行する専門家集団と外部ネットワークを組織化し、また、自分の発想をかなりシステマチックに検証し、そのビジョン化、及びメッセージ化を行える仕組みを整備する事により自らのビジョンを具現化したのである。 人類がこの世に誕生して以来、信長をはじめとするリーダーと呼ばれる人達は何らかの方法で、創意工夫をこらし、人々の意識変革を起そうと努力してきた。彼等は軍事力や経済力だけではなく、それらの力を背景に強烈なメッセージを発信し続け、人々の意識を変革、新たな時代へと導いた。それは多くのリーダーたちが「コミュニケーション」という人類社会誕生以来、空気のように人間にとって不可欠なものを「コミュニケーション力」として手段化することにより自分が掲げたビジョンを達成してきたのである。 #6666�P a�_/�L'white'>現状分析・把握(三好勢と野田/福島の砦)――船は必要だ、大砲は移動にお荷物だ ↓ 試作とテスト(問題確認と対応策)(竹生島攻撃)――船での大砲は移動性が良い 大型船の建造テスト ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(長島一揆)-大量投入による効果確認 ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(毛利水軍にやられる)-火器が弱い、 装甲の必要性、大型化が必要、破壊力の増大 ↓ 最終モデルの完成(鉄甲船の完成)――毛利軍に大勝  と分類整理できる。 また信長の偉大な所は武士の指導を任さず、現代の物の製造になくてはならないスペシャリストを導入している事が大きなポイントである、鉄砲鍛治にしても近江の国友鉄砲鍛治に全面的に任せ、鉄甲船の建造も当時海賊だった伊勢の九鬼義隆をプロジェクトリーダーとして登用し作らせたとあるが、彼の元には船の専門家である大工・岡部又右衛門がスペシャリストとして存在し製造技術は任せていた、この様に全てを任せてやらせる事は現代では当り前だが当時としては画期的な仕組みであったのだ、すなわちプロジェクトリーダーの下に個々のプロジェクトスペシャリストを配置しそれらの総合開発力を発揮している、もちろんLPL(Large Project Reader)は信長自身であった。 信長の技術評価システムの大成例は鉄甲船だけではなく、城の築城にも見られる、信長が残した安土城は余りにも有名であるがここにおいても前に記した様な評価システムがしっかりと存在している事を次に述べたい。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論6:信長における評価指標 – 3

    信長における評価指標 – 3 信長は技術屋だった、そう考えると色々な事が巧く当てはまって来る、当時、そのような分類は存在していなかったがどう考えて見ても信長は技術屋のマインドを持っていたと考えた方が良いようである、現在でも技術屋のトップが成功している例はソニーやホンダなど数多いが信長はその先駆者でなかったかと思われる。 技術屋とは経験の蓄積をどんどん成長してゆくものだが信長の場合前章で書いた鉄砲の例ではテスト・試作を重ねて要件基準の完成を行い、安宅船の例では同様にしっかりした評価基準を決め、さらに現代の開発の必要不可欠なプロジェクト制を敷き専門家に任せた物作りをしている、またそれらの技術の蓄積を評価システムとして大成させている、即ち1/1000mmも間違えも許されないきめ細かでシステマチックな技術屋マインドの考え方が随所に見られるのである。 当時戦国武将の攻めと守りは城が対象であった、城が落ちる事は負けを意味し城を作る事は自分の権力を世に示すものであった、すなわち城は本人の存在を世に示すものであり誰もが一度は自分の城を築く事を夢見ていたのである、これは現代でも男の願望だ。 信長の場合は弘治元年(1555年)に信友を陥れ最初に手に入れたのが清須城であるがこれは自分の意思は全く入っていない城の確保であった。信長が初めて自分の意思をいれて城を作ったのが永禄6年(1563年)の小牧城であった、ここは信長が尾張の統一を目指して首都にふさわしい地点として選んだといわれ首都機能を想定して町作りもされた、といわれている。 しかしおそらく信長はその成果(城)にかなりの不満があったのだと思われさらに永禄10年(1567年)に美濃稲葉山から斎藤竜興を追い落とし居城を小牧から濃尾平野を一望できる金華山に移して岐阜城とした。 これまでの信長が手がけた城の遍歴を見てみると、城の持つべき色々な要件を一つづつ技術の蓄積、経験の積み重ねとして完成させて行った。 その要件とは 城は支配地域を統治する戦略上の拠点でなくてはならない 城は権利の象徴で簡単に真似の出来ない物でなくてはならない、 城は建築や内装が豪華で粋を尽くした物でなくてはならない 城は交通の便が良くまた交通の要所でなくてはならない 城はいざと言う時は攻め難く守り易いものでないといけない 城は高い所から見下せ天下を治めるイメージがなくてはいけない 城は住民の誇りでなくてはならない、そして慕われなくてはいけない 城はその時点の最高の技術・資産で建てなれなければならない 城は領土の出来るだけ中央に位置しなければならない 城は砦としての価値だけでなく住むのにも快適でなくてはならない、、等 信長はこれらの建築要件を完成するのにさらに場所を物色していた、そして安宅船の活躍などで水という地の利の良さが要件として大きくクローズアップしてきていた、このため信長は元亀元年(1571年)に明智光秀に琵琶湖の南端に坂本城を築かせており、さらに天正3年(1575年)に羽柴秀吉に琵琶湖の北側に長浜城を築かせ拠点としての城を確保させた、そればかりでなくこれらの城の築城に際しては後の築城を考慮して石積みの技術集団である「穴太衆」を使い石積みの技術の研鑚に努めさせた、これが後の安土城のあの延々とした石積み技術「穴太積み」の集大成につながってきている。 信長は自分の持つ技術屋魂の総力をあげて今まで培って来た技術評価システムに基づいて作り上げた立地要件、構成要件等すべての要件を取り入れ安土城の構築に集大成させた。その成果としての城の建築様式は後世のあらゆる方面に多大な影響を与える存在となったのだった。 すなわち、権利の象徴として建物中に金箔をめぐらし屋根瓦にも貼り付け、すべての宗教の部屋を作りそれを下階に控えさせ、朝廷などの居住場所も自分の下方に配置させた。 交通の便については琵琶湖という水利の要所を抑えることによって日本海側と瀬戸内・太平洋側をつなぐ交通を掌握する事を狙っている、かつ北の長浜城(羽柴秀吉)、南の坂本城(明智光秀)、対岸の大溝城(織田信澄)等の部下を配置し拠点となる場所を選んでいる。 攻め難さと天下を治めるイメージは半島状に琵琶湖に突き出した半島は天然の堀で全方向見渡せる標高180mの山頂に更に高さ24mの石垣を組みその上に30mの高さにまで五層七階の天守閣を作っている天守閣からの展望は約230mもあって十分な視界とすべての地域から見える天守閣で権利を象徴させていた。 これを作るに当たってその周りに町の自然発生も助け2年もの間この町は城を建設するための多大な労働力の温床として発展させ城下町に形成して行った、そして城が出来てゆくに従い城が住民の誇りとなる様に仕向けていった。 さらに城は最高の技術と芸術で仕上げられ後述のような当時の各界のエキスパートが集められお互いの研鑚を行いながら最高の成果を出す事に成功している。 快適性についてもその前の居城である岐阜城においては山の下に四階建ての御殿を作り内部は金碧障壁画で飾られた豪華な住まいで評価基準を作りあげ、それを安土城に取り入れ吹き抜けの回廊、住める城への変貌など、快適性についても充分経験と基準が生かされている。 このように信長はあらゆる面でその評価基準を作りそれをシステムとして完成させたのがこの安土城だった。 さらに技術評価システムを遂行する重要なポイントであるプロジェクトグループ制度も総普請奉行の丹羽五郎左衛門長秀を始めとして、PL(プロジェクトリーダー)として普請奉行に木村次郎左衛門、棟梁は岡部又右衛門、大工に中井孫太夫正吉、瓦工は一観、金工は後藤平四郎と鉢阿弥、畳刺は伊阿弥新四郎、絵師は狩野永徳・光信父子、石工頭には戸波駿河と穴太衆を起用して完全なプロジェクト制度を敷いた、これは現在の自動車開発等に見られる個別のプロジェクト制度とまったく同一であり驚異に値するシステムである。 信長が技術屋であり素晴らしい技術評価システムの恐らく最初の施行者という想定は本当だったのだ。...