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Month: June 2008

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質6:安土城・ビジョンの展示場

    広辞苑には「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」とある。この定義からすると安土城は、まるで城らしくない。何しろ信長は安土城を一般に公開しているのだ。 キリスト教宣教師、ルイス・フロイスの「日本史」によると、貴賎を問わず、多くの人々が安土城の「見学ツアー」なるものに参加したという。 「(信長は)すべての国に布告を出させ、男女を問わず何びとも幾日かの間は自由に宮殿(本丸御殿)と城を見物できる許可を与え、入城を認めた。諸国から参集した群衆は後を断たず、その数はおびただしく、一同(宣教師)を驚嘆せしめた」(『日本史』) 軍事施設は秘密を旨とする。だとすれば一般公開など正気の沙汰ではない。だが、視点を変え、安土城を信長のビジョンの一大シンボルだと考えれば、一般公開はすんなりと腑に落ちる。この何とも不可思議で魅力的な建造物に託した信長の思想も見えてくる。そうした観点から安土城を見直してみよう。 安土城の西側に広がっていた城下町と天主(天守)のある城の中枢部とは百々橋口道という一本の道で結ばれていた。その途上に総見寺という寺が建立されていた。軍事施設である城に寺を建立すること自体前代未聞である。人々は登城する際には、この寺を通過し、天主のある本丸に登ることになる。そして、この総見寺には、信長の代わりとなる神体である「盆山」と称する石を安置した。 フロイスの「日本史」によると、信長は、総見寺を訪れた人には御利益がある旨の掲示を掲げた。 「富者にして当所に礼拝に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低き者、購しき者が当所に礼拝に来るならば、当寺院に詣でた功徳によって、同じく富裕の身となるであろう。しかうして子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は、ただちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう」 当時、民衆に対して最も魅力的なメッセージを発信し、その行動をコントロールしていたのは、石山本願寺を頂点とする一向宗(浄土真宗)である。一向宗も人々に「先」を見せることによって人々の行動を駆り立てていた。それは来世での御利益である「極楽往生」である。 百年以上も続いた乱世の中、多くの人々がこのメッセージに共感し、極楽往生を願って命懸けの一揆に参加した。一方、信長が建立し、神体である盆山を置く総見寺は、現世での御利益を強調した。信長が目指す「天下布武」によって、現世での御利益が実現するといったメッセージを、貴賎を問わず、安土城を訪れた多くの人々に発信したのである。 7層構造の安土城天主においても、信長は同様の仕掛けを行っている。 天主の復元調査からは、第6層目が仏教空間として設計されていたことが分かる。らせん状の二重構造で、まず外側の廊下をめぐってから内側の空間に入る回廊構造になっている。外側の壁には、餓鬼や鬼など地獄の様子が、そしてその先は二匹の龍が措かれている。内側の空間は金色に装飾され、釈迦とその10人の弟子を描いた「釈迦説法図」が掲げられている。 地獄図が「戦乱の世」を、龍が「信長による天下布武」、内側の空間が「極楽浄土」を象徴している。 「まず、地獄図によって表される戦乱の世の中がある。これは信長が登場する以前の様相である。次に龍に象徴される信長が武力をもって登場し、天下を治める。信長による天下平定がなった暁には、極楽浄土が現出する。そういう様子を、回廊をめぐることによって表現しようとしたのではないだろうか」(『信長の夢「安土上」発掘』) 信長の真骨頂は、「天下布武」の基本メッセージ(=信長が武力によって天下を統一した際には豊かな平和な世になる)を安土城下町の賑わいを通じて人々に実感させたことにある。交通の要衝にある安土に楽市楽座を導入する。その上で、様々な職能分野や芸能における最優秀者を表彰する「天下一」政策を展開。安土城見学ツアーを実施し、相撲大会などのイベントも開催する。こうした諸政策によって、安土に多くの人々を集めた。 その結果、安土城下町は当時のパリとも匹敵するほどの賑わいを誇ったと言われる。この地を訪れた人々は安土城を見ることによって、「天下布武」の意味を認識し、安土城下町の賑わいの中で平和で豊かな社会への方向性を実感した。 安土城は信長のビジョンの総集編である。信長のすべての「想い」が実感できる壮大な展示場である。人は経験によってその意識や行動が変る。これが信長の戦略コミュニケーションの発想である。安土城は信長のビジョンの広告塔として機能し、安土城下町は信長のビジョン実現のもたらす成果物を実際に味わい経験することができる巨大試食会場の役割を担っていた。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質5:情報専門家集団

    戦略コミュニケーションの発想で大切なことは情報の「収集」と「発信」をどう考えるかである。 一般的に情報の収集と発信は別のものと考えられがちである。情報収集というと「状況分析のために」という発想から情報収集が行われている。これを「発信のために」情報を収集するという発想に変えることが戦略コミュニケーションの発想である。情報の収集と発信を一体として捉えることができる感度である。この発想がメッセージ力を飛躍的に高める。 リーダーは誰にもまだ見えない先を読み取り、未来に向けた明解などジョンを示さなければならない。そのためには、システマチックに情報を収集し、分析し、システマチックにメッセージを発信するための専門家、組織、ネットワークが必要となる。 信長の作り上げた組織とネットワークを腑撤すると、いかに彼が情報の収集・分析・発信を重視しており、自らの「想い」を分かり易いメッセージに置き換え、それを効率よく社会に伝播させるかを者え抜いてきたかが分かる。 信長のCIA(中央情報局)ともいうべき情報のプロ集団と分厚い情報ネットワークを分析してみよう。この情報組織は大きく分けると以下の4つに分類できる。 組織化された近習団 表現のプロ集団 茶頭 その他のネットワーク これらそれぞれについて、更に詳しく見て行こう。 1 組織化された近習団 信長は早い時期から近習団を機能的に組織していた。他の戦国大名と比べるとその規模は大きく、多機能集団の体をなしていた。その役割は、単に日常の世話をする秘書的な業務に留まらず、信長の手足、目耳、そして頭の役割を担っており、以下のような機能をもっていた。 信長への取次ぎ機能 信長が発行する朱印状(命令書)に添える説明文である副状の発給機能 信長の意を伝える使者機能 信長の意志を伝えるだけでなく観察も行う検察機能 信長の重要来客への接客機能 堺、大津、草津などの重要拠点における代官機能 各種プロジェクトの企画、管理、遂行を担当する奉行機能 信長は巨大な軍団組織を手足のように使った。信長軍団の主力が5つに分かれた方面軍あったことは、別段で述べた。方面軍は羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家らの部将に率いられた自立性の高い垂直統合組織であった。企業組織にたとえれば利益・収益センターとしての事業本部に相当する。これに対して、信長直轄の近習団は横断的機能を持っていた。企業で言えば、社長室、企画室、広報室といった役割である。各方面軍に分かれた信長軍団が、信長の意思をよく体現し、戦功を重ねられた一因は、方面軍に横串を通す神経系の役割を担った近習団の優秀さに求められる。 2 表現のプロ集団 信長は自分の理想や想いを文章や絵画、建築などの形に表現するプロを数多く起用した。 信長のビジョンを「天下布武」という言葉に表現した臨済宗の禅僧である沢彦宗恩、信長の世界観を安土城の襖絵に描いた狩野永徳、信長の考え、視点を文章化した武井夕庵…。これらの人物は、配下の有力武将に勝るとも劣らないほど、信長の天下事業にとって重要な役割を果たした。 彼ら以外にも、信長ビジョンの最大の象徴である安土城の構築には最先端の技術、技量をもった無数の職人、石工、大工、が動員された。これらプロフエショナル達をフルに動員することによって信長は自らの意志を分かり易い形で、外部に向けて訴えることができたのである。 3 茶頭 信長は茶会を情報収集、発信、そして分析の「場」とした。 茶頭とは簡単に言えば、茶の湯の指南役である。その茶頭は、単に茶会を取り仕切るだけでなく、茶会の「場」での情報のやり取りの中で、信長に対していろいろな視点からのアドバイスを行った。信長の茶頭を務めたのは、津田宗及、今井宗久、千宗易らである。この3人は日本最大の商都堺の有力商人であり、情報感度という点では当代トップクラスの人材でもあった。当時の堺は、日本最大の内外情報の集積地であった。信長は堺衆のその秀でた分析力を、茶頭という形でおおいに活用したのだ。 そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。 間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。 ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。 信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。 信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。 変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。 第2の要素は「ビジョンの提示」である。 先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。 この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。 信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。 どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。 信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質4:人を動かす仕組み作り

    どんなに時代の先が見通せても、どんなにビジョンが素晴らしく表現され、理解されやすくても、その実現に向けて必要な人々の意識が変革され行動変化が起こらなければ、何事もおこらない。いかにビジョン実現に向けて人々の行動変化を仕掛けるか。何時の時代においても、リーダーシップを発揮する上で、もっとも大きな課題である。 戦国時代、信長の家臣団ほどその意識のベクトルが統一された組織は見当たらない。「天下布武」という1つのビジョンに向かって、末端から中枢まで組織全体が足並みを揃えて突き進んでいるという印象が強い。 信長の家臣団は戦国時代において最もワーカホリックな集団であった。 その忙しさたるや他の戦国軍事組織の比ではない。特に、1567年美濃攻略後、上洛戦を開始してから1582年に信長が本能寺で倒れるまでの15年間、将士から足軽に至るまで東奔西走の日々であった。彼らをひたすら信長のビジョン実にこ駆り立てたものは何だったのだろうか。 1つには、他の軍事組織と違い信長の軍団が戦闘専業集団であったことが挙げられる。他の戦国大名の戦闘集団が、農件業にも従事する国人層から構成されているのに対して、信長の戦闘集団はただ戦うことだけに集中すればよかった。 2つ目に、組織の中枢から末端に至るまで、信長のビジョンの実現が自分たちにとってどのようなメリットがあるのかを実感していたという点が指摘できる。「天下布武」が単なる能書きではなく、その実現に向けて実績を残せば、確実に出世ができる、経済的にも豊かになれるといった実質的利益が伴っていた。身分の貴賎は問わない。年功も不問。木下藤吉部、滝川一益など、出身さえ定かでない新参者でも、信長のビジョン実現に貢献すれば、どんどん出世していく。信長家臣団の全構成員はそうした姿を、自分に重ねられた。 しかも、信長の期待に応えた者への報酬は幾何級数的に増える。他の戦国大名の報酬体系が、年に数%のベースアップを基礎とする「伝統的日本企業型」だとするなら、信長組織のそれは、ストックオプション(自社株購入権)によって年収が何十倍にもアップする可能性がある「アメリカンドリーム型」と言えるだろう。 当時の報酬の基本形態は「土地」である。「土地」は幾何級数的には増えない。いくら信長組織が当時ダントツの成長率を誇っていたとしても、新たな「土地」を獲得していくために掛かる時間、労力、コストを考えると「土地」だけを原資にしては、この高報酬体系は維持できない。 信長の真骨頂は、原資を創り出すための価値基準を多様化したことにある。信長が提示した新たな価値の1つが「銭」である。「土地」に依存した原資確保の仕組みから「貨幣」をベースとした原資獲得の仕組みに大きくシフトさせることで、他の戦国大名にはなし得なかった魅力的な報酬体系を実現した。 信長は「銭」の供給という面では、金銀の鉱山開発の展開、決済手段としての金銀の普及、選銭令による流動性の増大などの施策を打っている。「銭」の需要面では、楽市楽座の導入、関所の撤廃などの経済政策を実施している。 また、信長は茶の湯と茶道具にも、貨幣と同等あるいはそれ以上に魅力的な価値を付与した。信長はその武力と財力で、名品の茶道具を狩り集めた。しかし、部下が自前で茶の湯を行うことを固く禁じた。これによって、信長家臣団の中では、茶の湯と茶道具の価値がインフレーションを起こす。そのうえで、武功を立てた者を茶の湯に招き、特に功の高かった者には、茶道具を与え、茶の湯を主催する特権を与えた。 天正10(1582)年の甲州遠征で功績高く、上野(今の群馬県)と信濃二群を与えられた滝川一益などは、一国一城の主になったことよりも、信長に拝受を願っていた茶入れ「珠光小茄子」が与えられず、京から離れ茶の湯の楽しみを奪われたことに大いに気落ちしたという。名物の茶道具は信長の深謀によって、一国にも勝るほどの価値を持ったわけだ。 そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。 間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。 ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。 信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。 信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。 変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。 第2の要素は「ビジョンの提示」である。 先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。 この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。 信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。 どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。 信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質3:ビジョンの提示

    信長ほど自らのビジョンを明確に打ち出した戦国部将はいない。 「天下布武」と刻まれた印判は、信長の意思、志を内外にはっきりと示している良い例である。ちなみに、他の戦国部将の例を見ると、上杉謙信の印判は「地帝妙」で、「地蔵、帝駅、妙見」といった宗教的意味合いを持ったものだった。北条氏綱のものはr禄寿応穏」。その意味は「天与の恵み、長寿、まさに穏やか」である。これらは、自らの方針を説明するというよりも、神の加護を期待する言葉、あるいは祈願の言葉と言える。 印判は「天下に武政を布く」という明らかなどジョンの表明になっている。 永禄10(1567)年、美濃平定を終え、本拠をそれまでの小牧山から、美濃斎藤家の主城、稲葉山城に移転した時から、信長は「天下布武」の印判を使い始める。同時に、稲葉山城下の「井の口」を「岐阜」と地名変更している。これは、周の文王・武王が岐山に拠って股を滅ぼし、天下統一を果たした故事にちなんでいる。「阜」は丘の意味である。すなわち、この新しい本拠地を日本の岐山として、ここから我が天下統一が始まるという信長の意思が伝わってくる。地名もビジョン表明の手段にしたわけだ。 信長の御旗(本陣に立てる巨大な旗)は「永楽銭」である。当時、全国で流通していた宋銭だ。 戦国時代、御旗には家紋をあしらったものや、軍神の名前を表記したものが多く見られる。九州の島津氏は家紋を御旗にしている。毛利氏は家紋に、軍神の名を表述してある。 戦いの天才と呼ばれた上杉謙信は軍神毘沙門天の「毘」を御旗のトレードマークとし、ライバルの武田信玄は中国の兵法書「孫子」から取った有名な「風林火山」を御旗とした。 信長がなぜ「永楽銭」を御旗としたのか。家紋でもなければ、戦いに強そうなシンボルでもない。「永楽銭」は当時最も流通していた銅銭である。金銀のような素材価値はない。中央政府によってその流通が保証されたものでもない。しかしながら、なぜか交換価値を持った銭として全国的に認められていた。当時はまだまだ物々交換が幅を利かせていたし、米も交換価値として使われていた。そうした中で、コンパクトで持ち運びができる永楽銭は全国スタンダードの極めて便利な貨幣であった。 信長が永楽銭を自軍のシンボルとしたのは、1つには貨幣経済に対する意識の高さの表れだろう。楽市楽座の創設や開所の撤廃などの商業・流通振興策によって、領国の富裕化を図った信長は、他の戦国大名に先駆けて、兵力と農民を切り離す兵農分離に成功した。人々が土地に至上の価値を置き、配下武将への恩賞も土地を基本とした時代に、信長は商業がもたらす膨大な富によって、〝富国強兵〝を図ったのだ。いわば、貨幣経済を支える永楽銭は、自らの国家経営の方向性を示す格好のシンボルだったと言える。 また、「全国で通用するスタンダード」という永楽銭の性格は、「普遍性」に通じる。戦国大名が割拠する時代状況の中、信長は「永楽銭」を旗印のシンボルにすることによって「われとわが思想こそが(永楽銭と同様)全国津々浦々のスタンダードになる」といったメッセージを込めていたのかもしれない。今で言うならば織田軍は「グローバル・スタンダード」を標榜したことになる。 安土城も、壮大なメッセージ発信装置と言える。 信長の創った安土城とは「見せる城」であった。あたかも、能舞台で辛苦舞を舞うがごとく、信長は安土城を自らのビジョンを演出する「舞台」として考えた。 安土城は、多くの人々の度肝を抜く威容を有した。天にそびえ立つ7層の吹き抜け構造の「天主」、京都の清涼殿に似た荘厳な本丸御殿、金箔をふんだんに使った装飾、狩野永徳を中心とする当代一流の絵師による絵画、大手門から本丸へ向かって一直線に伸びた幅6m、長さ180mの道、当時は先端技術であった石垣で囲まれた構造物、仏教のみならず、道教、儒教、キリスト教などを包含した宗教空間の設置(総見寺、地下1階の宝塔、天主の6、7層階の宗教装飾)、など、安土城を見た人々は信長が標榜する「天下布武」の向こうに、安土城の名前の由来である「安楽浄土」を暗示させる何か新しい世界の広がりを感じ取ったに違いない。 信長は安土城を舞台として様々なイベントを行った。1581年のお盆祭りの際には、数万の提灯で安土城を飾り、琵琶湖に松明を持った無数の船を浮かべた。さながら、1933年にヒトラーが高性能サーチライトを無数のナチス党員に持たせ、演出させた、史上有名な「光の大聖堂」のごとくである。 また、1582年、信長は正月には前代未聞とも言うべき安土城の有料見学ツアーなるものを実施し、一門衆、隣国の大名、部将、安土城下の庶民に城内を公開している。 こうした、言語・視覚的シンボルを通じたビジョンの表現以外にも、信長は人事政策や報酬制度、あるいは戦争の方法などにおいても、自らの信条や理想を強烈に発信している。それについては、また別段で詳述したい。 印判から城まで、あらゆるものにメッセージを込め、伝達メデイアにしてしまう信長の戦略コミュニケーションの発想は天性のものであるとしか言いようがない。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質2:先を読み取る力

    信長自信がひとつの大きなセンサーであった。時代の流れを鋭く感知する高性能センサーである。自分の体を具体的事象の真っただ中に置き、五感どころか第六感までもフル稼働させ、変化を直接感知する。「現場」に出向き、「現物」に接し、「現実」を知る。「現場」「現物」「現実」のいわゆる「三現主義」を徹底、あらゆる事象から貪欲になんらかのメッセージを嗅ぎ取った。 信長の事績を伝える『信長公記』に「蛇がへの事」という逸話がある。家臣の佐々成政の居城の近くの池に大蛇が出るという噂が立った。「つらは、鹿のつらの如くなり。目は星の如くひかりかがやく」という大蛇の探索を思い立った信長の行動は、彼の「情報に対する態度」をよく表している。 信長はまず、人を集め、桶、鋤、鍬を持たせ、一斉に池の水を汲み出させた。4時間ほどすると池の水が七分まで減ったが、その後水位が変わらない。そこで、信長自ら脇差をロにくわえ水の中に入っていった。しかし、大蛇は見つからず、今度は水練の達者な鵜左衛門という者に水中を調べさせた。結果、やはり大蛇は見つからず、信長はさっさと居城である清洲に帰ってしまう。 文芸評論家の秋山駿氏は、その著書『信長』の中で、このエピソードに触れ、こう記している。 「信長は単身先頭を駆ける。『よく水に鍛錬したる者』を先にしない。自分がした事の後を確かめさせる。おそらく信玄、謙信、秀吉、家康は、そうはしない。順を逆にする」 ここで面白いのは、事実を確認する信長流のやり方である。水汲み作戦がうまくいかなくなると自ら水中に飛び込み調べる。再度、専門家に最終確認をさせる。自らも直接確認するが、専門家に最終確認させる詰めの厳しさ。秋山氏は「信玄、謙信、秀吉、家康は、そうはしない。順を逆にする」と記しているが、多分、彼らは自ら体を張ってあとで調べるということはないだろう。生半可な情報の把握は命取りになる。信長はここが徹底している。状況把握に対する慎重な態度である。この慎重さが物事の裏にあるメッセージの読み取りを可能にする。 ほかに現場の第一線に身を置くということでは、信長はしばしば戦闘において陣頭指揮を執っている点が挙げられる。 際立った陣頭指揮の例としては、1560年の桶狭間の戦いがある。 信長27歳の時のこの戦いは、当時、戦国大名として最強を誇り、「海道一の弓取り(=戦上手)」と呼ばれていた駿河、遠江、三河の太守の今川義元が上洛のため、その途上にある尾張へ本格的侵攻を開始したことに端を発する。1560年5月12日、義元は居城である駿府を発ち、尾張へと進軍、その総勢2万5000。5月18日には既に今川勢は清洲の最後の防御ラインである鷲津、丸根の両砦への攻撃を準備するまでに尾張への侵攻を完了していた。この間、信長は清洲にいて動かなかった。戦線の情報収集と分析、対応策を検討していたものと思われる。ところが、19日未明(午前4時頃と言われている)、突然、清洲城を出発する。 前述の大蛇探索の際に信長が取った行動と重なる。水汲みでは埒が明かない、限界がある。もっとしっかりとした情報を把握するために、自ら一歩踏み込む行動パターンである。もはや、清洲城にいたのでは、いろいろな情報が錯綜し、意思決定するための状況把握に限界がある。だから、自らをセンサーの固まりにして、現場に飛び込んでいくしかない。そして、現場で刻一刻と変化する情報に直接接し、判断していくという行動を信長は取った。清洲城を飛び出した時は、状況把握レベルは50%にも達していないかもしれないが、とにかく現場、現実、の中を走り抜く中でそのレベルを60%、70%と上げていけばよい、という割り切りである。 信長が清洲城を出発したのが午前4時。義元の本陣に接近し、戦闘を開始した時刻は午後の1時頃である。この間、約9時間という時間の流れの中で、信長は領内全域に放っておいた多くの間者からの報告に基づき、確実に状況把握のレベルを80%、90%と上げていった。 午前10時、信長はいったん、善照寺という義元の本陣が休息を取っている田楽狭間から3.5kmの場所で兵をまとめる。その数約2000。この段階では、まだ義元の本陣の位置は信長には分かっていない。このあと、「今川義元殿、ただいま田楽狭間にあり」という報告が梁田政綱からもたらされる。この一報が信長の状況把握レベルを一挙に90%以上に上げ、桶狭間の戦いでの勝利に導いていく。 刻一刻と変化する事象の中で、報告などの間接情報に依存していると状況把握力の低下、ひいては的確な意思決定に大きな影響を及ぼす。変化を敏感に察知する、そしてそこから状況変化を読み取る。そのために、自らを変化が起こっている現場にさらす。信長は終生、この原則を貫徹している。変化を読み取るためには、間接情報だけをいくら蓄積させても何も見えてこない。第一線の現場で絶えず情報の流れに直接身を置くことによって、混沌とした情報の集積の奥にある変化の本質を見抜く「カン」が育つ。あらゆる事象からのメッセージを読み取る力とはこの「カン」どころを磨くことでもある。このメッセージ感度をたかめることこそ戦略コミュニケーションの発想の基本である。...