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Month: August 2008

  • (コラム)小泉純一郎の戦略コミュニケーションの本質5:世界では通用しない小泉流メッセージ力学

    メッセージ発信には相手がいる。メッセージ性の高い人はかならず、相手を明確に認識している。獲物を狙う豹のように。その特定した相手に対して、一貫したメッセージを繰り返し、繰り返し、あらゆる方向から撃ち込む。相手を特定すればするほどメッセージはぶれない。メッセージがぶれなければ、相手の意識と行動により大きな影響を与えられる。相手を変えたり、増やしたりするとメッセージはぶれる。歯切れが悪くなる。玉虫色の発言が目立ってくる。ある相手にとっては良いメッセージでも別の相手にとっては必ずしも良いとは限らない。小泉純一郎のメッセージはぶれない。白黒がはっきりしている。はっきりさせたくないときは第三者的な解説調でかわす。ひとつひとつのメッセージがどのような影響を意中の相手に与えるかを綿密に計算している。小泉メッセージの一貫性はこの意中の相手を6年間変えなかったことである。その意中の相手とは誰か。小泉純一郎には二人の相手がいる。一人は国民である。国民に向けて発信するというスタンスを小泉純一郎は固守する。その目的は支持の獲得である。しかし本当の相手は「永田町」そのものである。自民党守旧派であり、民主党を中心とする野党であり、永田町と表裏一体の関係にある霞ヶ関官僚組織である。まさに「敵は本能寺ならぬ永田町」である。その目的は牽制である。小泉流メッセージ力学の基本構図は国民の支持を獲得、その支持を楯に「永田町」を牽制する。小泉は永田町政治力学打破への執念が強い。ある意味では永田町政治力学に対する挑戦者である。世論の支持をテコに永田町を小泉は6年間揺さぶり続けた。その結果、世論の支持の有無が永田町の力学に今まで以上に大きな影響をもつようになってきた。 しかし、相手がぶれないということは、弱点にもなる。とくに外交では相手は世界である。 北朝鮮への2回にわたる電撃訪問、徹底した米国ブッシュ政権重視、イラクへの自衛隊派遣、など小泉外交は従来と比べるとかなり派手である。しかしながらコミュニケーション力学の視点から見ると相手不在である。相手が見えない。相手は北朝鮮でも、米国でも、イラクでもない。すべてが国内に向けてのメッセージ発信に腐心しているという印象を受ける。やはり、小泉メッセージの相手は国民と「永田町」である。ここはぶれない。あくまで国民の支持獲得と「永田町」への牽制が目的である。 外交とはある意味、武力を使わない戦争である。戦争である限り、目的があり、それは国益の実現である。そのために相手国を動かす。軍事力、経済力によって相手国の利害に直接働きかける方法と国際世論を醸成、城の堀を埋めるように相手国を追い込んでいくという二つのやり方がある。イソップ寓話の北風と太陽の話である。武力や経済力の行使は北風であり、国際世論の醸成は太陽である。この二つの方法をどのように有機的に組み合わせるかが外交の“妙”である。歴史を少し遡るが、日本は日露戦争のとき見事に“妙”なる外交政策を打った。日露戦争は単に軍事力によって日本が勝利を納めたものではない。日露の軍事衝突の背後には、用意周到な外交政策があった。日本はロシアと戦いながら、一方で、欧米や他のアジア諸国の支持を取りつけるための外交努力に腐心していた。国際世論の支持の獲得することが莫大な戦費を賄うためには不可欠であった。欧米からの資金調達ができるかどうかが日本の命運を握っていた。また国際世論の支持獲得はロシアの国際的孤立を加速させ、さらにはロシア国内の反動勢力であったレーニン率いる共産党の反政府活動を活性化した。すでに軍事力の限界にきていた日本にとって勝利実現の要は外交努力を通じた日本に対する国際世論の支持獲得であった。「相手はロシアだ」という一点に軍事、経済、外交と硬軟すべてのベクトルを集中した結果、相手であるロシアに敗北を認めさせ、賠償金の支払い、租借地の割譲、講和条約締結に合意させる。 小泉外交の相手がよく見えてこない理由は国益実現のために相手を動かすといった視点が欠けているからである。外交をあくまで、国内に向けたメッセージ発信の機会としてだけで捉えているように見える。外交には3種の神器がある。軍事力、経済力、そして国際世論である。軍事力、経済力によるアプローチは結構目立つ。可視化が容易である。ところが、国際世論の醸成となると地味である。目立たない。可視化しにくい。相手は政府だけではない。国際機関、NPO、格付け会社、業界などの様々な団体や多くの市民活動との地道な関係構築が求められる。ところが、小泉外交には外交の“見える部分”によるアピールが中心となっている。国際世論を培っていくといった地道なアプローチが少ない。国内では世論というものをあれだけ巧みに使ってきた小泉マジックがなぜ、世界という舞台では国際世論の創出という面で働かないのか。やはり、小泉マジックの相手は国内なのである。国内に対してメッセージ発信するという視点からは国際世論の醸成といった地味で目立たない、可視化しにくいものでは“絵”にならない。ブッシュ大統領と仲良くキャンプ・デービットでキャッチボールするシーン、日の丸のついた飛行機から颯爽とピョンヤンにタラップから降り立つシーン、北朝鮮からの帰国後、拉致被害者の人々の批判を無言で受けるシーン、自衛隊のイラク派遣を神妙な面持ちで発表するシーン、アジア諸国からの批判には屈しないぞと言わんばかり靖国参拝をするシーン、これらは強烈なメッセージ発信はアメリカ、北朝鮮、イラク、中国、韓国などに向けられたものではない。あくまで国内に対して発信されている。外交は国内への小泉メッセージ発信のための舞台なのである。相手を国内に置いている限り小泉流メッセージ力学は国境を越えない。...

  • (コラム)小泉純一郎の戦略コミュニケーションの本質4:小泉的 vs 小沢的、どっちの料理ショー

    小泉的コミュニケーションと両極をなすのが、小沢的コミュニケーションである。選挙用語で地上戦と空中戦という表現がある。地上戦とは候補者が選挙区を足でまわり、なるべく多くの有権者に直接訴える選挙戦術である。“どぶ板選挙”とも言われている。片や空中戦はテレビCM、新聞広告、ポスター、TV番組出演、ウェブ戦略などいろいろな媒体を通じて間接的に有権者に訴えていく選挙戦術である。地上戦が“顔の見える”個々の有権者へのメッセージ発信に対して、空中戦は“顔の見えない”不特定多数の人々へのメッセージ発信である。選挙ではこの地上戦と空中戦の有機的な結びつきが死命を制する。 “顔が見える”のと“顔が見えない”のとではコミュニケーションの原理原則がまったく変わって来る。敢えて、小沢的が地上戦型コミュニケーションであるとすれば、小泉的は空中戦型コミュニケーションである。その端的な例は2006年の千葉補選である。2005年の総選挙での勝利の余勢を駆って自民党陣営は小泉総理はもちろんのこと、話題のポスト小泉候補の御歴々や小泉チルドレンの面々が大挙選挙区に投入された。その基本的なアプローチは個別に訪問するというよりも、選挙区の不特定多数に訴えるやり方であった。当然、人通りのある場所での、テレビ・カメラ目線を十分に意識した遊説やパフォーマンスなどの演出が満載であった。自民党の基本戦略は変わらない。小泉自民党が2005年の総選挙でとった空中戦重視の戦略の延長線上である。当初は自民勝利という見通しが強まる中、メール事件で混迷を極めていた民主党の新代表として小沢一郎が就任する。状況は一変した。マスコミは前回の総選挙で小泉マジックに載せられたという反動から、民主党の方に焦点を移しつつあった。マスコミの変化を考えるならば、民主党も空中戦を展開する土壌の上に立っていた。ところが、小沢一郎の動きは反対に地上戦に向かった。人通りのある場所のみならず、個別の地域に入り込み、リンゴ箱の上での遊説、地域のキーパーソンへの個別訪問などまさに“どぶ板選挙”を地で行く。結果は僅差で民主党の勝利であった。空中戦の小泉に地上戦の小沢が勝った。 小沢的コミュニケーションは“顔が見える”だけに個々の相手の立場や心情をひとつひとつ摘んでいく“気配り”が出発点になる。地上戦だからと言ってむやみやたらと人に会って握手をすればよいと言うことではない。選挙区の中で人のつながりの連結部分にあるキーパーソンを見つけ、相手の気持ちをストレートに掴んでいく。そのキーパーソンがメッセージの“語り部”となって増幅器の役割を果し、支持の連鎖が広がる。そのキーパーソンにどれだけ強烈なメッセージをおとせるかがメッセージの増幅度合い、支持連鎖の広がりとスピードを決める。その鍵は様々な相手の立場に対して、こちらの視点をどれだけ流動化できるかである。別の言い方をすれば、多様な立場の違いをどれだけ柔軟に呑み込めるか。どれだけ相手の視点に立てメッセージを発信できるかが勝負を決める。Market-Inの発想である。小泉的ははじめから“顔の見えない”不特定多数を相手にする。いちいち一人ひとりの有権者の立場や心情を鑑みることはできない。メッセージの決め撃ちが必要となる。また不特定多数を相手にするため、マスメデイアが有権者との間に介在する。マスメデイアがいったんメッセージの受け皿になる。マスメデイアという中継点を通ってメッセージが有権者に運ばれる。マスメデイアの視点によってはメッセージが勝手に歪曲されるリスクを孕んでいる。それだけにメッセージはできるだけ解釈の余地を与えないシンプルで簡潔なものが求められる。小泉的コミュニケーション力がオセロであれば、小沢的コミュニケーション力は詰め将棋である。オセロは一瞬にして白黒のどちらかに勝負がつく。詰め将棋は一つ一つの積み重ねが勝負を決める。小沢的は局地戦につよい。小泉的は総力戦に強い。小沢的は直接相手の気持ちに飛び込むだけにメッセージは外さない。小泉的はマスメデイアというテコを使うため、メッセージを外すリスクが高い。 いずれにせよ、小泉的がいいのか、小沢的がいいのかといった問題ではない。バランスの問題である。小泉的へ傾けば一挙に勝負を決められるが、外したときは完敗である。 小沢的を重視すれば、局地戦はモノにできるが、天下取りに時間がかかる。 天下統一を織田信長流でいくか、武田信玄流でいくかの問題である。...