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Month: March 2010

  • 信長の破壊の流儀 – 第14回 ステークホルダーの意識改革、天下統一の道筋をつくる

    シリーズ最終回は今まで幾度も書いてきたことだが、信長のなし得た人の意識の変革について改めて語り、しめくくりとしたい。 織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。天下統一の実現の途上半ばで、信長は倒れたが、天下統一の道筋はしっかりと作ることに成功したと言える。...

  • 信長の破壊の流儀 – 第13回 家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」へ

    信長は、家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」に変革した。 鎌倉、室町期の武士は「土地」への執着が強かった。もともと武士の発祥は土地の開拓開墾者である。彼らは自らが開拓、開墾した「土地」を懸命に守ることを本領とする。「一所懸命」である。そして、その「土地」を保護してくれる者に対して忠誠を誓う。...

  • 信長の破壊の流儀 – 第12回 信長、家臣団の意識と戦う

    その中で、信長がいち早く、戦国大名が持つこの支配の脆弱性を克服、天下布武という自らのビジョン実現に向けて家臣団を動かした。 1567年9月に信長は美濃の斎藤氏が居城とする稲葉山城を落城させ、美濃攻略を果す。その翌年8月には、足利義昭を奉じた上洛軍を編成、4万の軍勢を統率し、わずか1カ月あまりで入京を実現させる。そして、その後は四面の敵に臨機応変に信長軍を展開、天下布武への道筋をつける。信長は既にこの時点で、他の戦国大名とは異なった“集権”、あるいはトップ・ダウンという支配関係を家臣団との間に確立していた。...

  • 信長の破壊の流儀 – 第11回 “集権”をすることは自殺行為

    信長が掲げた天下布武には信長による直接支配、直接統治という意味合いが色濃く含まれている。当時の戦国大名諸侯が一般的に描いていた、あるいは想像していた天下統一とは、自らの手で上洛、足利幕府を再興、幕府の最高実力者として大名諸侯の連合体の上に君臨するといったものであった。 上洛を試みた今川義元、武田信玄なども上洛後の政体を同様に考えていたものと想像される。...

  • 信長の破壊の流儀 – 第10回 「分散」のベクトルVS「集中」のベクトル戦い

    前回の「現世利益」vs「来世利益」で紹介した信長が成し遂げた意識づけに加え、今回は社会そのものを動かした意識改革を紹介する。 15世紀の終わりから16世紀半ば過ぎまでの期間は、日本史上でも最も社会が激しく動いた時代のひとつである。中世社会を規定していた中央集権的性格の色濃い荘園公領制、守護、地頭制の崩壊に伴い、支配の秩序が大きく変質した時代であった。...

  • 信長の破壊の流儀 – 第9回 「現世利益」VS「来世利益」の戦い

    どのようにして長きにわたる一向宗との経済戦争に勝利したのか。それはこの「現世利益」VS「来世利益」を紐解くことが重要だ。 石山本願寺を頂点とする一向宗は各地で守護、大名、国人などの領主層との経済権益争いを絶えず起こしていた。...