信長の破壊の流儀 - 第7回 信長の最大の敵=意識の壁、石山本願寺率いる一向一揆

前回の「岐阜の城下町は『バビロンの雑踏』」に引き続き、今回も信長の最大の敵について説明する。

石山本願寺の率いる一向一揆は信長の最大の敵であったといっても過言ではない。
1580年に和睦が成立するまで信長は石山本願寺と10年間戦い続けた。

信長が行った画期的な革新が政教分離という政治革新と楽市楽座の代表される経済革新である。しかしながら、この2つの革新は本願寺一向衆、比叡山、高野山などの宗教勢力との戦いに勝ち抜いて、初めて実現できた。

宗教勢力に対する勝利なくして、2つの政治、経済革新はなかったと言える。
信長と宗教勢力の戦いは壮絶を極めた。宗教勢力の中で最も強大な組織が石山本願寺を頂点とする一向一揆集団であった。

親鸞を開祖とする浄土真宗は、蓮如によって組織化が図られ、石山本願寺を頂点とする一向宗として畿内、北陸、東海を中心に各地で勢力を拡大させた。中でも強勢を誇ったのが、伊勢長島の一向一揆と加賀、越前の一向一揆である。

特に加賀、越前は「一揆もちの国」と呼ばれ、戦国大名に匹敵する領主権を行使していた。

石山本願寺の急速な成長の背景には、蓮如による一般民衆を対象とした布教活動があった。その「教え」は単純明快である。「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽往生できるというものであった。

度重なる飢饉、戦争によって民衆の生活が疲弊する中、この単純明快な「教え」は多くの民衆の心をつかんだ。これにより、蓮如の率いる浄土真宗は一向宗として急速に民衆の支持を取りつけ、結果として初めて仏教が民衆レベルに広まることになる。

一方、下克上の風潮の中で、中世的枠組みからはずれた新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民、地侍、地下入居など商業、流通、土地の開墾などを通して独自の経済力を築きつつあった新興勢力にも石山本願寺は着目した。

従来の封建的支配に服さないこの新興階級を巧みにその組織拡大のために取り込んだ。

石山本願寺を頂点とする一向一揆は、当時最大の政治勢力であると同時に最大の経済的影響力を誇っていた。信長が天下布武を実現するためには、どうしても石山本願寺の持つ巨大な政治力と経済力を粉砕する必要があった。

次回はこの石山本願寺の持つ経済力の背景について説明する。