信長の破壊の流儀 - 第10回 「分散」のベクトルVS「集中」のベクトル戦い

前回の「現世利益」vs「来世利益」で紹介した信長が成し遂げた意識づけに加え、今回は社会そのものを動かした意識改革を紹介する。

15世紀の終わりから16世紀半ば過ぎまでの期間は、日本史上でも最も社会が激しく動いた時代のひとつである。中世社会を規定していた中央集権的性格の色濃い荘園公領制、守護、地頭制の崩壊に伴い、支配の秩序が大きく変質した時代であった。

この時代は「一揆」という社会現象によって特徴づけることができる。戦国時代は下克上と言われるが、まさにその背景には、この「一揆」という新たな支配関係の秩序の出現がある。

農民や都市民だけでなく、武士、僧侶、神官などあらゆる社会層で一揆は結ばれた。彼らは、既存権威に対抗、ある共通の目的をもって組織化され、その構成員間の関係は従来の封建的な上下関係ではなく、契約という考え方を基礎にした自立的集団であった。

戦国大名自体、武家領主たちによる一揆組織であり、荘園制や守護、地頭制などの集権的体制に取って代わる新たな領国支配の在り方であった。

戦国時代の100年間、日本社会は“分権”と“自立”という分散のベクトルが働いていた時代であった。その中から徐々に「一揆」という社会現象の結果である有力な戦国大名や石山本願寺一向宗のような巨大な宗教勢力が出現する。そして、社会のベクトルは分権から統一の方向に転換し始める。

信長はこの“転換”を仕掛けたリーダーである。しかしながら、分権へ向かおうとするベクトルを、より集権の方向に戻し、新たな統一国家を構築するには、一揆という社会的構造を成立たせている支配関係の秩序を根本から変革する必要があった。これは、とてつもない“意識改革”の実現を意味する。

織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。信長が発想した新たな支配秩序の方向性は、その後、後継者である秀吉と徳川家康に引き継がれ、江戸時代約300年という世界史上でも珍しい天下泰平の世を実現させる。

次回は信長が仕掛けた集権の背景事情について説明したい。