信長の破壊の流儀 - 第11回 “集権”をすることは自殺行為
信長が掲げた天下布武には信長による直接支配、直接統治という意味合いが色濃く含まれている。当時の戦国大名諸侯が一般的に描いていた、あるいは想像していた天下統一とは、自らの手で上洛、足利幕府を再興、幕府の最高実力者として大名諸侯の連合体の上に君臨するといったものであった。
上洛を試みた今川義元、武田信玄なども上洛後の政体を同様に考えていたものと想像される。
信長の描く「天下布武」には大名諸侯の連合体のような政体はまったく含まれていない。信長の統治に対する考え方はすべてトップダウンを起点とする。“集権”を通じて、如何に直接支配の範囲を広げるか、直接統治を強化するかであった。
前述したように戦国大名とは武家領主による一揆と言える。守護からの支配に対抗し、自立的な領国経営を可能にするための組織である。この組織の上に、最も有力な者が戦国大名として君臨する。
信長の父である信秀などは典型的な例である。尾張守護代織田家の一奉行でしかなかった信秀は、この一揆という組織形態を巧みに利用、尾張における「触れ頭」的存在として君臨、戦国大名化していく。
確かに、従来の守護による領国経営のあり方と違い、1つの目的を共有する組織形態である一揆は、構成員の利害関係が一致する限り、強力な組織力を発揮する。多くの戦国大名が強力な軍事組織を確立、領国経営のための優れた民政政策を数多く実施してきたことを見れば、従来の守護大名の比ではない。
しかしながら、戦国大名と家臣団との支配関係は一揆の特徴である契約的要素が色濃く存在するため、大名自身の指導力、統率力という面でその脆弱性は否めなかった。
戦国大名の代表格である武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康、伊達政宗などは、この支配の脆弱性に起因する領国経営の問題に常に苦労している。また、戦国大名間の戦いは往々にして、それぞれの家臣団を形成する国人層の利害と思惑が交差したものを原因としており、戦国大名自身の意志で起すというケースは少なく、家臣団である国人層が戦国大名達を戦いに駆り立てていたというのが実情である。
このような状況の中で、“集権”をすることは自殺行為に等しい。権力基盤の崩壊を意味する。それほど、戦国時代100年を通じて、一揆というしくみを通じて、分権と自立になれた、大名、豪族、国人層、仏教集団、更には家臣からの“集権”に対する拒否反応は並たいていのものではなかった。
次回はではどうやって家臣の意識を変えたのかという部分について語ってみる。