戦略コミュニケーションの温故知新:田中愼一流、戦略コミュニケーションの発想の系譜を辿る(2)

このシリーズでは一度、原点回帰という意味で私のコミュニケーションの系譜を振り返り、整理し、そこから新たな発想を得ることが狙いです。コミュニケーションの妙なるところが伝えられれば幸いだと考えます。(前回の「戦略コミュニケーションの温故知新」はこちらから)

PRという言葉を初めて聞いたのは1983年の夏ごろだと記憶している。28の歳ころである。

当時は原宿にあったホンダの本社中南米営業部に席を置き、発電機、水ポンプ、耕運機などホンダの汎用機器製品を中南米向けに売っていった。

部長に突然呼ばれアメリカの首府ワシントンDCへの駐在を命じられる。その際に仕事の内容はPRだと言われたのがPRとの最初の遭遇である。言い渡した部長自身もPRがPublic Relationsの略である以外はまったく仕事の内容を把握していなかった。

アメリカ駐在は嬉しかったが、一方で営業から外れることは残念であった。事務系にとってはやはり営業が主流である。営業から外れて、訳のわからないPRなどの間接部門への配属は、当時、野心旺盛な自分としては出世のキャリアから外れるといった些細な妄想にとりつかれ大きなショックであった。

部長もそこを察したのか、「田中、今度の仕事は今までホンダがやったことのない仕事である。ホンダは目に見えることについてはめっぽう強いが、目に見えないことについてはからきし弱い。これからお前がそれをつくっていくのだ。」と大いに慰めてもらった。

そのときは、「何を言ってやんだい」と上司の慰めの言葉(激励の言葉?)を鼻にもかけなかったが、今から思うと実に要を得たはなむけの言葉であった。

コミュニケーションにとっては「見えないものを見る」力が最も求められる。

最も見えないものが人の意識である。

この見えない意識を見る、そしてその意識に働きかけるのがまさにコミュニケーションの作用なのである。

いずれにせよ、駐在の辞令が出て、その年の10月23日にはワシントンに着任した。そもそもなぜ自分が選ばれたかを後々聞く機会があった。理由は単純であった。当時のホンダの海外営業部門の中で田中が一番英語ができそうだということが理由であった。

なるほどまず言語でコミュニケーションがとれないとPRは難しいという発想だったのだろう。ところが本人は英語ができるという自信はまるっきりなかった。着任した晩、ワシントンのホテルにチェックインする際、どう英語で表現したものか大いに迷った。列に並んで待っている間「Check in please. My name is Shinichi Tanaka.」を口の中で緊張しながら繰り返し繰り返し練習していたことを覚えている。(つづく)

~~~~~~~~~~~~~~~筆者経歴~~~~~~~~~~~~~~~~~

田中 慎一
フライシュマン・ヒラード・ジャパン 代表取締役社長

1978年、本田技研工業入社。
83年よりワシントンDCに駐在、米国における政府議会対策、マスコミ対策を担当。1994年~97年にかけ、セガ・エンタープライズの海外事業展開を担当。1997年にフライシュマン・ヒラードに参画し日本オフィスを立ち上げ、代表取締役に就任。日本の戦略コミュニケーション・コンサルタントの第一人者。近著に「オバマ戦略のカラクリ」「破壊者の流儀 不確かな社会を生き抜く”したたかさ”を学ぶ 」(共にアスキー新書)がある。