福沢諭吉"12の「ますます」"に学ぶコミュニケーション(コミュニケーション百景 第11回)

(からの続き)著作「民情一新」において福沢諭吉は語る。

「西洋諸国の文明開化は徳教にもあらず、文学にもあらず、又理論にも在らざるなり。

然らば則ち何処に求めて可ならん。余を以って之を見れば其れ人民交通の便に在りと

云はざるを得ず。」(民情一新)

福沢諭吉は近代社会においては精神的、物質的にも未曾有の緊密な相互依存関係が出現、社会の不特定多数との複層的な「関係性」の形成が物質的豊かさを実現、文明の進歩を加速化することを洞察していた。

福沢諭吉が洞察した近代社会の方向性とはどんなものであったのかを福沢諭吉の12の「ますます」という形でまとめてみた。

1.様々な社会関係の固定性がますます崩れてくる社会

2.人間相互の関係が一刻も固定せずますます不断に流動する社会

3.人間相互の交渉関係がますます複雑多様になる社会

4.そのため人間の交渉様式がますます複雑多様になる社会

5.環境や状況の変化がますます速くなる社会

6.精神は現在の状況にますます安住することができない社会

7.不断にますます目覚めていなければならない社会

8.価値基準の固定性が失われ判断基準がますます多元的となる社会、

9.それらの多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となる社会

10.伝統や習慣に代わってますます知性の占める役割が大きくなる社会

11.知性の試行錯誤による活動がますます積極的に必要とされる社会

12.不断の活動と緊張がますます増える社会

どうも我々が住む近代社会とは大変な世界であるようだ。

決して「楽」な世界ではない。

差し詰め、近代社会とは「関係性のジャングル」の時代と謂える。

福沢諭吉は、この「関係性のジャングル」の中では「主体性に乏しい精神」をもった者がまず、餌食になることを示唆する。

「主体性に乏しい精神」とはひとつの事柄を金科玉条の如く考え、特殊的状況に根ざした視点に捉われる精神であると定義する。

「主体性に乏しい精神」によって具体的状況を分析する煩雑さから逃れようとする態度を福沢諭吉は痛烈に批判する。

それは「視点の凝集化」であり、「意識の化石化」であり、「視点の絶対化」である。福沢諭吉はこのことを忌み嫌い「惑溺」した精神と表現する。

福沢諭吉曰く。

「広く日本の世事に就て之を視察するに、道徳に凝る者あり、才智に凝る者あり、

政治に凝る者あり、宗旨に凝る者あり、教育に凝る者あり、商売に凝る者ありて、

其凝り固まるの極度に至りては、他の運動を許さずして自身も亦自由ならず」

福沢諭吉は「凝る」ことを嫌った。

このような野蛮な「関係性のジャングル」をどう生き抜くかを指南した福沢諭吉の著作があの有名な「学問のすすめ」である。

日本で初めてのベストセラーである。当時の殆どの日本人が手にしたと謂われている。

それだけ、時代の要請に合致した内容のものであった。(つづく)

*「コミュニケーション百景」。このシリーズのモットーは“コミュニケーションを24時間考える”です。寝ても覚めてもコミュニケーションを考えることを信条にしています。コミュニケーションでいろいろと思いつくことを書き綴っていきたいと思っています。

~~~~~~~~~~~~~~~筆者経歴~~~~~~~~~~~~~~~~~

田中 慎一
フライシュマン・ヒラード・ジャパン 代表取締役社長

1978年、本田技研工業入社。
83年よりワシントンDCに駐在、米国における政府議会対策、マスコミ対策を担当。1994年~97年にかけ、セガ・エンタープライズの海外事業展開を担当。1997年にフライシュマン・ヒラードに参画し日本オフィスを立ち上げ、代表取締役に就任。日本の戦略コミュニケーション・コンサルタントの第一人者。近著に「オバマ戦略のカラクリ」「破壊者の流儀 不確かな社会を生き抜く”したたかさ”を学ぶ 」(共にアスキー新書)がある。

☆twitterアカウント:@ShinTanaka