(コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論 2:信長と銭

信長と「銭」- この一見奇異な組み合わせは、信長を知る上で欠かせないキーワードのひとつである。信長こそが、あるいは信長だけが、並居る戦国大名の中でただ一人「銭」に目をつけ、経済至上主義の時代の到来を予想しそれをいち早く人々に知らしめたために、天下布武への階段を誰よりも速く駆け上がる事ができたのであるが、実は我々現代人にとっても、このキーワードは極めて大きな意味を持つのである。

天正3年5月21日早朝、最強を謳われた武田騎馬軍団を率いる武田勝頼は、父信玄でさえ落とせなかった高天神城を陥落させ、長篠の設楽原において、織田・徳川連合軍と対峙した。山県昌景を先方に突撃する武田軍に対し、織田・徳川軍の鉄砲3000丁(一説によると1000丁)が火を吹く…… 。「長篠合戦図屏風」に描かれる織田本陣の図を見ると、「銭」をあしらった信長軍の旗が幾つも林立していることに気付く。

信長の旗印は、当時明からの渡来銭として日本全国で広く流通していた「永楽銭」である。永楽銭はもともと「根本渡唐銭」と呼ばれ、明から輸入された銭貨である。中世日本では、国家が独自に銭貨を鋳造する事が無く、12世紀より既に貿易を通じて流入した主に中国渡来銭が通貨として流通していた。

この背景は、中国銭が「唐物」であることの価値と信用に加え、貿易や交易において中国銭が交換媒体として高い機能を持つと認識されたことにあると思われるが、信長はこの永楽銭を旗印だけでなく、刀のつばにもデザインとして使用している。

織田家の代々の家紋は木瓜紋であるが、信長が自分のシンボルとしてあえて使用したのがこの「銭」である。通常、「銭」は戦場の旗印に似つかわしくない。当時はカネより兵力、武力で合戦に勝つという考え方が基本であったし、武田信玄の「風林火山」の馬印、あるいは徳川家康の「厭離穢土 欣求浄土」の軍旗に見られるように、旗印や馬印はその軍団の哲学、信仰などを表すのが一般的であった。唯一、信州真田家が旗印に六紋銭を使用していたが、これは人間が死後「六道」の迷界のいずれかに生まれ変わるため、その入り口で一文づつ木戸銭を払うという輪廻の考え方、そして人間の殺生という罪を救ってもらえるという地蔵信仰の考え方が原点にある。しかし信長の永楽銭には、そうした仏教的色彩はない。

信長が見据えていたもの、それは一つには、永楽銭が経済の基本であり、それがあれば鉄砲、傭兵、米の調達、公家の懐柔まで何でも出来る、「銭」こそが天下をとる上で最も必要な手段であるという概念であるが、それだけではない。永楽銭の旗印の持つ象徴的な意味は、1)新し物好きの信長独特の、人々の意表を突く手段としての意味合いとともに、2)「銭」を介在とする経済、商業がこれからの戦を支配するという、新時代の幕開けを敵にも味方にも知らしめ、自らその旗手となることを宣言しつつ、3)当時ニッポンで唯一全国津々浦々まで通用する永楽銭をシンボルとすることがすなわち、自分の錦の御旗が全国に通用するという意識、信長の力が全国に行き渡り、信長こそが天下に号令するという認識をつくる事に繋がる、そうした意味までもが含まれていたのではないか。つまり、今日でいえば携帯電話あるいはウィンドウズのように、非常に便利で、世界中どこでも通用し、皆が価値を認めているデファクトスタンダードを支配する、さらにはそうしたデファクトスタンダードになるのが信長である、という意識である。

こうしてみると、信長が永楽銭の旗印を持って行おうとしたことは、人々の価値観を抜本的に変える、「意識改革」までもが含まれていることが分かる。私がかつて学んだビジネススクールでは、リーダーシップの3要素として「先のビジョンを示し、それに向けて人々を方向づけ、モチベートしていく」ことを学んだが、信長は戦国武将の中で混沌の時代にいち早く「銭」の価値に目を付け、この先のどういう時代が来るのかを「銭」によって人々に示し、そして「銭」を獲得すべく家臣団を動機づけていった、変革期のリーダーにふさわしいリーダーシップを発揮した存在であったのではなかろうか。いま日本経済は景気低迷、株価も底割れし、混沌として先が見えない状況といわれるが、「銭」にいち早く目を付けた信長のようなビジネスリーダーの登場が一日も早く望まれることだけは間違いない。