(コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論4:信長における評価指標 – 1

信長は大変新しい物好きだったという事は知られており、服装もキリシタンバテレンの服装やソンボレロを好んで着たり、ワインなども喜んで嗜んでいたと言われている、その持ち前の好奇心を単に好奇心に留まらせずさらに発展させて「もの」を見る目を養い暗黙に独自の評価方法を作り上げていた、そしてそれが現在多くの会社で使われている技術評価システムの根源である「物の見方、考え方、結論の導き方」の構築が既に実施されていたと考えられる点が多い。

織田信長は天文20年(1551年)父・信秀の急死で18才で織田家を相続したが、当時は大うづけ(馬鹿者)呼ばわりされる変わり者で、服装なども何も構わず勝手気ままに行動していたと言う、ある意味ではこの様な環境が個性的で創造的な気質を育てたとも云える。

最初に信長が技術改革といえるものをやったのが槍の長さである、当時3間(5.5m)しかなかった槍を、3間半(6.4m)4間(7.2m)に長くし家来どもに竹槍合戦をやらせその成果を見届けていた、そして最終的には3間半に統一しその後の戦場に役立てている。これを技術評価システム的に解釈するならば、問題点抽出→現実分析→発想→複数案試作→テスト→最終案の決定→商品化、と当てはめることが可能だ。

信長の技術革新で有名なのが鉄砲の導入である、天文12年(1543年)に種子島に伝来して以来瞬く間に世間に広まったが、信長の父である信秀も鉄砲に対する見る目が鋭く当時足軽が使う兵器であった鉄砲を橋本一巴を師として信長につけ習わせていた、信長は早くからこの鉄砲の可能性(長所)と欠点を理解し、それを最大限に発揮する方法を考案していた、可能性(長所)は遥か遠くの物にも決定的な殺傷能力を有することであり、欠点は“弾込めの時間ロス”でありさらに火縄銃の特性とも言える“発砲の遅れ”であった、その中の可能性を更に高めていったのが武田軍との長篠の戦いに於ける鉄砲の大量採用であり、後の織田水軍の鉄甲船に搭載された巨大大砲なのである。

また、欠点の一つであった“弾込めの時間ロス”を補うものが長篠における3列入れ替わりの戦闘態勢だった、しかしこの手法はそれ以前に天文23年(1554年)に今川勢のたてこもる知多半島に有った村木の砦を攻める時に自ら家来の足軽に弾を詰めさせてそれを順序良く受け取り射撃していたという記録がある、この時にすでに出来上がっていた構想を色々テストして自ら体験する事により完成させていったと想定される。

もう一つの欠点である火縄式である為に起こる“発砲遅れ”の対策は同じ長篠の戦いに採用された馬止柵であった、動きの早い馬上の人を狙うのは発砲に遅れの有る火縄銃ではかなり難しいがそれを馬止柵で馬が立往生して動きを止めているうちに射撃する事で正確性を高める様に考えられたのだった。

信長は使うばかりではなく現在のEngineering Systemすなわちその製造法にも独自な手法を広めていた。それは従来の鋳造法でなく鍛造法であった、これは鋳造の場合は形を作るのは簡単だがその芯を巧くくり抜き銃身とすることが難しかったのに比べ、通常用いられている刀の製造法を応用させ、帯状の鉄板を心棒に巻いて圧接(灼熱した鉄を叩いてくっ付ける)して作る鍛造法を採用したことで格段に生産性をあげられた事だった。

この時点で信長は彼の構想の中に技術評価の原点とも言うべきものがすでに完成されていたと言える、彼はこの時点で評価というものに目をつけ自らが評価者となっている点が面白い、現在の様に仕事が細かく細分化し専門家でないと評価が正しくされない時代と違い当時は自らが評価者となっても充分務まるレベルであったといえる。

特に信長が優れていた点は複数案の作成とテストによる確認であった、また単に出来たものをテスト評価するのでなく、その製造法についてまでも目を光らせて居た事はさすがといえる、竹槍の改造の時点ではその作り方迄には目を配ってないが、鉄砲に置いては製造法に目をつけ大量生産に結び付けている。

現在の評価システムの4大要素であるD、E、S、Q即ちDevelopment、Engineering、 Sales、Quality のうち信長は、D:開発、E:製造技術、のシステムについては完成の域に達していたのである、S、については「楽市楽座」でシステムを構築していたと言えるがここでは割愛する。

信長はその後この手法を行使して、亀甲船や安土城の築城を成功させ又、また大砲の形状等にも改良を加えているがこれ等については続く章で述べてみたい。