(コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論5:信長における評価指標 – 2

信長は槍の改良、鉄砲製造方法の改良、鉄砲の欠点を補う使い方システムの完成などで技術評価システムに対する概念がほとんど固まって来ていた、それらの考え方を集大成する事になったのが、有名な鉄甲船の建造であった。

1576年、一向一揆の勢力が立て篭る石山本願寺に戦略物資を送り込もうとしていた毛利水軍800隻を木曽川口で待ち受けていた織田水軍300隻は、銅製の球に火薬を詰め込んで火を点じて相手に投げ込む大型の手投げ弾・焙烙火矢(ほうろくひや)の威力にものの見事に蹴散らされてしまった。
しかしこれに引き下がっている信長ではなかった、このすぐ後、当時の伊勢の海賊大名九鬼義隆に当時の安宅船に対して投影面積でも4倍も有るような新しい大型軍船の建造を命じ、わずか2年の間に6隻もの全面を2~3mmの鉄板で装甲した鉄甲船を建造させた、そして前の惨敗から2年後の1578年、同じく木曽川口にて600隻の毛利水軍を6隻の鉄甲船と小船の集団で待ち受けていた、その鉄甲船の装備はそれだけではなかった、箱造りの船首には巨大大砲が3門備えられ船腹には無数の銃眼が並べられていた。
戦いの結果は明白であった、最大の武器の焙烙火矢を全く受け付けず、かつ近寄っては船首からの巨大大砲で撃ち砕く戦術に毛利水軍はひとたまりもなくほぼ全滅の憂き目に遭ったのだった。

この信長の戦術は決してすぐに完成したのではなく、かなり以前から色々と実戦で試されテスト改良された後の産物であった、大砲に関しては1570年に彼が攝津の三好勢と野田/福島の砦で戦ったときも「数多くの物見櫓を建て、大砲を城中に撃ちこみ敵を攻めつけた」と信長公記に伝えられている、またさらに1571年の竹生島の浅井攻めでは琵琶湖に大砲の装備を付けた「囲い舟」なる船を登場させて、従来の大砲の弱点である移動性の悪さを克服し、ついで1573年に琵琶湖で長さ30間、片側100挺櫓の大型船を建造させているさらに1574年の長島一揆では数百隻の船に大砲を装備し撃ちまくったとの記録もある。
また大砲の製造法に関しても、鉄砲で得た鍛造法による砲身の製造法を応用し、当時の流行であった製造は容易だが強度的に不安のある青銅製の製法に代えて鉄製の砲身を作成していた、これにより当時としては画期的な鉄砲の弾の33倍もある750グラムの砲弾を打ち出す事が可能となったのは優れた製造技術の大成という事が出来る、しかし鉄甲船に積まれた大砲は正確な記述はないが後に家康が作ったとされる大砲(靖国神社蔵)と同等弾丸は4kgだったと想像される、いかに巨大大砲であったかがわかる、それは1574 年にすでに長島一揆で大砲が船に積まれていてそれを最初の毛利水軍の時も使われたが効果が少く惨敗の憂き目に遭ったので思い切って巨大大砲としたと推定される。

また鉄甲船に関しては西欧諸国で鉄板を装甲として使い出したのは17世紀とされているので100年以上も前に採用しているので驚異的であるが、大型船に関しては宣教師オルガンチーノから母国オランダの情報を得ていたとも言われている、そしてそれらの下地も琵琶湖を始めとした3回の海戦で得たノウハウが蓄積され改良されて集大成となったという事が出来る。
一説によると第二次世界大戦の戦艦大和もこの分厚い鉄板で守るという思想で作られたとあるが確かではない。

これを技術評価的に整理してみると、、

ニーズの掌握(情報の収集)――宣教師より大型船(ガレー船)の情報、火砲の重要性

現状分析・把握(三好勢と野田/福島の砦)――船は必要だ、大砲は移動にお荷物だ

試作とテスト(問題確認と対応策)(竹生島攻撃)――船での大砲は移動性が良い
大型船の建造テスト

改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(長島一揆)-大量投入による効果確認

改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(毛利水軍にやられる)-火器が弱い、
装甲の必要性、大型化が必要、破壊力の増大

最終モデルの完成(鉄甲船の完成)――毛利軍に大勝  と分類整理できる。

また信長の偉大な所は武士の指導を任さず、現代の物の製造になくてはならないスペシャリストを導入している事が大きなポイントである、鉄砲鍛治にしても近江の国友鉄砲鍛治に全面的に任せ、鉄甲船の建造も当時海賊だった伊勢の九鬼義隆をプロジェクトリーダーとして登用し作らせたとあるが、彼の元には船の専門家である大工・岡部又右衛門がスペシャリストとして存在し製造技術は任せていた、この様に全てを任せてやらせる事は現代では当り前だが当時としては画期的な仕組みであったのだ、すなわちプロジェクトリーダーの下に個々のプロジェクトスペシャリストを配置しそれらの総合開発力を発揮している、もちろんLPL(Large Project Reader)は信長自身であった。

信長の技術評価システムの大成例は鉄甲船だけではなく、城の築城にも見られる、信長が残した安土城は余りにも有名であるがここにおいても前に記した様な評価システムがしっかりと存在している事を次に述べたい。