(コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論6:信長における評価指標 – 3

信長における評価指標 – 3

信長は技術屋だった、そう考えると色々な事が巧く当てはまって来る、当時、そのような分類は存在していなかったがどう考えて見ても信長は技術屋のマインドを持っていたと考えた方が良いようである、現在でも技術屋のトップが成功している例はソニーやホンダなど数多いが信長はその先駆者でなかったかと思われる。

技術屋とは経験の蓄積をどんどん成長してゆくものだが信長の場合前章で書いた鉄砲の例ではテスト・試作を重ねて要件基準の完成を行い、安宅船の例では同様にしっかりした評価基準を決め、さらに現代の開発の必要不可欠なプロジェクト制を敷き専門家に任せた物作りをしている、またそれらの技術の蓄積を評価システムとして大成させている、即ち1/1000mmも間違えも許されないきめ細かでシステマチックな技術屋マインドの考え方が随所に見られるのである。

当時戦国武将の攻めと守りは城が対象であった、城が落ちる事は負けを意味し城を作る事は自分の権力を世に示すものであった、すなわち城は本人の存在を世に示すものであり誰もが一度は自分の城を築く事を夢見ていたのである、これは現代でも男の願望だ。
信長の場合は弘治元年(1555年)に信友を陥れ最初に手に入れたのが清須城であるがこれは自分の意思は全く入っていない城の確保であった。信長が初めて自分の意思をいれて城を作ったのが永禄6年(1563年)の小牧城であった、ここは信長が尾張の統一を目指して首都にふさわしい地点として選んだといわれ首都機能を想定して町作りもされた、といわれている。 しかしおそらく信長はその成果(城)にかなりの不満があったのだと思われさらに永禄10年(1567年)に美濃稲葉山から斎藤竜興を追い落とし居城を小牧から濃尾平野を一望できる金華山に移して岐阜城とした。
これまでの信長が手がけた城の遍歴を見てみると、城の持つべき色々な要件を一つづつ技術の蓄積、経験の積み重ねとして完成させて行った。

その要件とは
城は支配地域を統治する戦略上の拠点でなくてはならない
城は権利の象徴で簡単に真似の出来ない物でなくてはならない、
城は建築や内装が豪華で粋を尽くした物でなくてはならない
城は交通の便が良くまた交通の要所でなくてはならない
城はいざと言う時は攻め難く守り易いものでないといけない
城は高い所から見下せ天下を治めるイメージがなくてはいけない
城は住民の誇りでなくてはならない、そして慕われなくてはいけない
城はその時点の最高の技術・資産で建てなれなければならない
城は領土の出来るだけ中央に位置しなければならない
城は砦としての価値だけでなく住むのにも快適でなくてはならない、、等

信長はこれらの建築要件を完成するのにさらに場所を物色していた、そして安宅船の活躍などで水という地の利の良さが要件として大きくクローズアップしてきていた、このため信長は元亀元年(1571年)に明智光秀に琵琶湖の南端に坂本城を築かせており、さらに天正3年(1575年)に羽柴秀吉に琵琶湖の北側に長浜城を築かせ拠点としての城を確保させた、そればかりでなくこれらの城の築城に際しては後の築城を考慮して石積みの技術集団である「穴太衆」を使い石積みの技術の研鑚に努めさせた、これが後の安土城のあの延々とした石積み技術「穴太積み」の集大成につながってきている。
信長は自分の持つ技術屋魂の総力をあげて今まで培って来た技術評価システムに基づいて作り上げた立地要件、構成要件等すべての要件を取り入れ安土城の構築に集大成させた。その成果としての城の建築様式は後世のあらゆる方面に多大な影響を与える存在となったのだった。

すなわち、権利の象徴として建物中に金箔をめぐらし屋根瓦にも貼り付け、すべての宗教の部屋を作りそれを下階に控えさせ、朝廷などの居住場所も自分の下方に配置させた。
交通の便については琵琶湖という水利の要所を抑えることによって日本海側と瀬戸内・太平洋側をつなぐ交通を掌握する事を狙っている、かつ北の長浜城(羽柴秀吉)、南の坂本城(明智光秀)、対岸の大溝城(織田信澄)等の部下を配置し拠点となる場所を選んでいる。
攻め難さと天下を治めるイメージは半島状に琵琶湖に突き出した半島は天然の堀で全方向見渡せる標高180mの山頂に更に高さ24mの石垣を組みその上に30mの高さにまで五層七階の天守閣を作っている天守閣からの展望は約230mもあって十分な視界とすべての地域から見える天守閣で権利を象徴させていた。

これを作るに当たってその周りに町の自然発生も助け2年もの間この町は城を建設するための多大な労働力の温床として発展させ城下町に形成して行った、そして城が出来てゆくに従い城が住民の誇りとなる様に仕向けていった。
さらに城は最高の技術と芸術で仕上げられ後述のような当時の各界のエキスパートが集められお互いの研鑚を行いながら最高の成果を出す事に成功している。
快適性についてもその前の居城である岐阜城においては山の下に四階建ての御殿を作り内部は金碧障壁画で飾られた豪華な住まいで評価基準を作りあげ、それを安土城に取り入れ吹き抜けの回廊、住める城への変貌など、快適性についても充分経験と基準が生かされている。 このように信長はあらゆる面でその評価基準を作りそれをシステムとして完成させたのがこの安土城だった。

さらに技術評価システムを遂行する重要なポイントであるプロジェクトグループ制度も総普請奉行の丹羽五郎左衛門長秀を始めとして、PL(プロジェクトリーダー)として普請奉行に木村次郎左衛門、棟梁は岡部又右衛門、大工に中井孫太夫正吉、瓦工は一観、金工は後藤平四郎と鉢阿弥、畳刺は伊阿弥新四郎、絵師は狩野永徳・光信父子、石工頭には戸波駿河と穴太衆を起用して完全なプロジェクト制度を敷いた、これは現在の自動車開発等に見られる個別のプロジェクト制度とまったく同一であり驚異に値するシステムである。

信長が技術屋であり素晴らしい技術評価システムの恐らく最初の施行者という想定は本当だったのだ。