(コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論7:コミュニケーションと信長

変化の時代とは絶えず、社会のパラダイムシフト(社会の拠って立つ基準の変化)が起こる世界である。しかしながら、人々の意識は変化を嫌う。変化の時代における混乱と混迷の原因がここにある。変革期のリーダーの使命は、コミュニケーションを通じ人々が変化を受け入れられるように意識付けを行うことにある。

信長は独断先行型のリーダーとしてのイメージが強く、人を納得させて動かすというよりも無理やり動かすタイプといった印象があるが、それは誤った見方である。信長ほど独創性の強く創意工夫を凝らす人間は、自らの想いや考え方を周りに理解、納得させられなければ、戦国時代においてはとっくに殺されている。

信長が家督を継ぎ、様々な革新の実現に着手したとき、目前に立ちはだかったものは、武田信玄や本願寺一向宗ではなく、変化を嫌う人々の意識であった。それらとの戦いの中で、信長は自らの独創性を遺憾なく発揮するために「コミュニケーション」を力、手段として捉え、自分のビジョンを示し、人々の意識や行動を変革するために以下のことを実践し目的を達成したのである。

1. 近習団を機能的に組織し、単に日常の秘書的な業務に留まらず、自らの手足、目、耳、そして頭の役割を担わせた。

2. 地下人層から公家、僧、文化人、教養人も含めた幅広いネットワークを積極的に構築し、それを利用して時代の流れ、トレンドを有機的に、体系的に把握することを心がけた。

3. 自身のビジョンである「てんかふぶ天下布武」を表現(コンセプト化、文章化、描写化)するプロとして禅僧のたくげん しゅうおん沢彦宗恩やかのう えいと狩野永徳、たけい ゆうあん武井夕庵など自分の想いを表現できる専門家を起用した。

4. 茶会を情報収集、発信、分析の「場」として利用し、その「場」での情報のやり取りを通して、自分に対する様々な視点からのアドバイスや情報の分析業務を行った。

5. 言語や視覚的なシンボルのみならず、様々な政策や制度を導入、多くのイベントや事象を演出、さらには伝達方法にも心を砕き、自らの行動を通じて「天下布武」の実現によって人々が何を享受できるかを訴えた。そして、それを示すと同時に実感させることに腐心するなどメッセージ伝達の工夫をした。

このように、信長は様々な情報収集、分析、発信の一連の業務を遂行する専門家集団と外部ネットワークを組織化し、また、自分の発想をかなりシステマチックに検証し、そのビジョン化、及びメッセージ化を行える仕組みを整備する事により自らのビジョンを具現化したのである。
人類がこの世に誕生して以来、信長をはじめとするリーダーと呼ばれる人達は何らかの方法で、創意工夫をこらし、人々の意識変革を起そうと努力してきた。彼等は軍事力や経済力だけではなく、それらの力を背景に強烈なメッセージを発信し続け、人々の意識を変革、新たな時代へと導いた。それは多くのリーダーたちが「コミュニケーション」という人類社会誕生以来、空気のように人間にとって不可欠なものを「コミュニケーション力」として手段化することにより自分が掲げたビジョンを達成してきたのである。

#6666�P a�_/�L’white’>現状分析・把握(三好勢と野田/福島の砦)――船は必要だ、大砲は移動にお荷物だ

試作とテスト(問題確認と対応策)(竹生島攻撃)――船での大砲は移動性が良い
大型船の建造テスト

改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(長島一揆)-大量投入による効果確認

改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(毛利水軍にやられる)-火器が弱い、
装甲の必要性、大型化が必要、破壊力の増大

最終モデルの完成(鉄甲船の完成)――毛利軍に大勝  と分類整理できる。

また信長の偉大な所は武士の指導を任さず、現代の物の製造になくてはならないスペシャリストを導入している事が大きなポイントである、鉄砲鍛治にしても近江の国友鉄砲鍛治に全面的に任せ、鉄甲船の建造も当時海賊だった伊勢の九鬼義隆をプロジェクトリーダーとして登用し作らせたとあるが、彼の元には船の専門家である大工・岡部又右衛門がスペシャリストとして存在し製造技術は任せていた、この様に全てを任せてやらせる事は現代では当り前だが当時としては画期的な仕組みであったのだ、すなわちプロジェクトリーダーの下に個々のプロジェクトスペシャリストを配置しそれらの総合開発力を発揮している、もちろんLPL(Large Project Reader)は信長自身であった。

信長の技術評価システムの大成例は鉄甲船だけではなく、城の築城にも見られる、信長が残した安土城は余りにも有名であるがここにおいても前に記した様な評価システムがしっかりと存在している事を次に述べたい。