(コラム)信長のリーダシップの本質1:戦略コミュニケーションの発想

作家、藤沢周平は「信長ぎらい」と題したエッセイにこう記す。
「嫌いになった理由はたくさんあるけれども、それをいちいち書く必要はなく、信長が行った殺載ひとつをあげれば足りるように思う」

山中の堂塔伽藍をことごとく焼き払い、僧俗3000~4000人を虐殺した比叡山の焼き討ちや、男女2万人を焼き殺した長島一向一揆討伐など、織田信長は日本史上類例のない大量殺教を行っている。こうした残虐な殺戟行為ゆえに、信長には熱心なファンとともに、少なからぬ「信長ぎらい」がいるのも確かである。

信長の大量殺動行為については、稿を改めて考察するとして、「信長好き」も「信長ぎらい」も、信長を独断的なリーダーと見る点では一致する。桶狭間の戦いに見る果敢な行動力、長篠の戦いや兵農分離、楽市楽座に見る独創性、将軍廃位や蘭音待切り取りなどが象徴する専制性。強大な恐怖と畏敬によって有無も言わさず周囲を従わせる専制君主というのが、現代日本人が持つ信長像の最大公約数だろう。

しかし、と考えざるを得ない。恐怖のみによって人を動かせるだろうか。一時的には可能だろう。だが、群雄が割拠する戦国の世に、一代で日本の中心部のほとんどを席巻し、政治・経済・文化のすべてに一大変革をもたらした偉業は、信長単独の力では不可能である。そこには家臣、同盟者、領民、朝廷など数多くの利害関係者(ステークホルダー)の理解と行動が必要だったはずである。

例えば、「兵農分離」と「専制的意思決定」を考えてみよう。信長の独創と言われる「兵農分離」だが、戦国大名なら誰しも、農民と兵士を切り離し、農繁期にも戦える常設軍を創設することは悲願だったはずだ。また、譜代の家臣や領内の有力国人層に諮ることなく、自らの独断によって内政や軍事を実施できれば戦国大名にとってこれほどありがたいことはない。ところが、信長以外のどの大名も「兵農分離」や「専制的意思決定」を実現し得なかった。

戦国時代、富と力の源泉は何より土地であった。兵士たちは自らの土地を守るため、そして、新たな土地を恩賞として得るために戦った。商業が発達していた尾張にしても、基本は土地本位制であった。そうした中、兵力と土地を切り離す難しさは現代人の想像をはるかに超えている。

信長が単独ですべてを決めるという意思決定方法も、ある意味暴挙とさえ言える。武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就などの他の戦国大名たちは、譜代の家臣や有力国人層の合議制によって、領国経営を進めてきた。かつての守護・守護代を下克上に乗じて退けた国人層の頭目格に過ぎない戦国大名には、一般に考えられているほどの専制的な権威はなかったからだ。譜代・有力国層は大名と対等とはいかないが、かなり接近した発言力を有していた。それゆえ、大名といえども、重臣たちの理解を得られなければ、物事を決められなかった。逆に、彼らの意向を無視し、反発を招くばかりなら、君主の地位を追われ、殺されることすらあった。武田信玄の父親である武田信虎が独断的だという理由で家臣たちによって駿河の今川家に追放されたことなどが良い例である。

そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。

間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。

ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。

信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。

信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。

変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。

第2の要素は「ビジョンの提示」である。

先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。

この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。

信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。

どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。

信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。