二人の“イチロー”


Photo by Mori Chan

WBC決勝戦と小沢民主党代表3月24日記者会見

イチローはカッコ良かった。

WBC決勝戦10回の表、2打点を打ち込んだイチローの映像に日本人皆が感動した。
その感動はイチローが決勝打を打ったという行為だけから生まれたものではない。日本人の多くが、映像では見えない“イチロー・ストーリー”を頭で描きながら、2打点を稼ぐヒットを打ち、塁をまわっているイチローの雄姿にそのストーリーを重ね合わせ、感動を味わっているのである。

イチローには確かにストーリー性がある。

日本人を代表して野球の本場、大リーグで一流のプレイヤーとして活躍するイチロー。
求道者として一途に野球を究めようとしているイチロー。
WBCで日本人として燃える男イチロー。
今回のWBCで不振で悩むイチロー。

今までのイチローの様々な姿や事象が積み重なり、人々の意識の中に“イチロー・ストーリー”なるものが育まれていく。
観衆は“決勝打を打つ”イチローの姿の背後に、このストーリーを想像して感動を喚起させている。このように一つの行為の背後にしっかりとしたストーリーが想起されるとその“行為”が感動を呼ぶ。これが“ステージング(Staging)”の妙である。

同じイチローでも3月24日に行われた小沢一郎(イチロー)民主党代表の記者会見には感動がなかった。

そこにはストーリー性が感じられなかった。国民への謝罪、涙、など“当事者意識”を示す上でのいわゆる“小手先”の対応はあったが、その姿の背後にはストーリーはなかった。

したがってどれほどの共感を国民に与えたかは甚だ疑わしい。

ストーリー醸成には一貫性が求められる。

イチローは日本で活躍していたころから“求道者としてのイチロー”といったイメージを一貫して出し続けてきた。

その一貫性が“イチロー・ストーリー”を支えている。3月4日に行われた一回目の小沢民主党代表の記者会見と3月24日の記者会見を比べるとまったく一貫していない。

一回目の記者会見では国民に対する“謝罪”はなかった。また表情も“憮然”としていた。検察や国家権力への強い批判があった。見ているほうも“これが同じ人間か”と思うほど会見のトーンが違う。この一貫性のなさが、小沢民主党代表の姿の背後にストーリーが想起できない理由である。ストーリー性のないところには感動、共感はない。

小沢民主党代表の失敗は、一回目の記者会見を行う前に、しっかりとしたストーリーあるいは土俵が描けなかったことである。

ステージングに対する配慮がなかった。

ストーリーをつくるには、まず目的の設定が重要になる。目的が明確になれば、その目的実現に資するストーリーを考えればよい。

ある民主党の議員が「検察に対する法廷闘争と政権交代のための選挙戦略とは違う」といった趣旨のことを述べている。

これば真にごもっともな話で、記者会見の目的が検察に対する法廷闘争なのか、政権交代実現をはかるための選挙戦略なのか、まったく明確でない。

“二頭追う者は一頭も得ず”である。目的を絞り込めなかったために、しっかりとしたステージングができなかった感がある。目的意識のないメッセージ発信は“危険”である。ステージングなしのメッセージ発信も“危険”である。小沢民主党代表や麻生総理など日本を代表する政治家の方々を見ていると、コミュニケーションの「カラクリ」(原理・原則)を知らずにメッセージ発信している“危うさ”を感じざるを得ない。