信長の破壊の流儀 - 第5回 「土地本位制」から「銭本位制」へ

信長は軍事力で天下布武を行ったのではない、信長は経済力によって天下を取ろうとした。

御旗のデザインに永楽銭を使ったことが象徴している。永楽銭とは、当時、日本で最も信頼され、普及していた中国の明の貨幣である。まさに、「銭で天下を取る」という信長の意志表示である。

信長は経済力をテコに天下統一の道筋を作ったとも言える。

信長は東海有数の商業港の津島にあった勝幡城で幼少を過ごした。信忠、信雄を生んだ側室、吉乃の生家で、灰、油の商人、馬借である生駒氏との緊密な関係などが信長の経済感覚を育てる。経済を創意工夫することによって土地に替わる「銭」を大量に創出し、他の戦国大名とは桁違いの莫大な資金力をもって組織革新、技術革新、政治革新を矢継ぎ早に実施、天下布武に邁進した。その原資創造をささえたのが信長の経済革新である。

その中心は「土地本位制」から「銭本位制」への移行を可能にした信長の貨幣政策である。永禄12(1569)年、撰鏡令を大坂、京都、奈良で発布、永楽銭を基準として他の銭との交換比率を決め、これを強制することによって永楽銭のような精銭のみならず、悪銭の流通をも増す政策をとった。また、同時に便乗値上げを禁止する物価政策も実施し、更に米を代替貨幣にすることを禁じ、米本位制からの脱却もはかった。

金銀銅の3貨制も導入した。それぞれの交換比率を決め、実質的に金銀の価値を銅銭こ対して切り下げるとともに、糸、薬、茶碗、鍛子などの大量購入には金銀の使用を命じ、金銀の貨幣としての普及を促進した。これらの貨幣政策によって・当時の主要な価値形態であった土地に対して貨幣(銭)の価値を相対的に上げる効果があった。

「銭」の「土地」に対する相対価値が上がることは、すなわち圧倒的な「銭」の調達力を持つ信長の原資拡大を意味する。他の戦国大名が「土地」を勢力拡大のための原資としていたのに対して、信長は「銭」という幾何級数的に拡大が可能な原資を成長力のベースとした。

天文18(1549)年、信長は16歳の時に近江の国友村に500挺の鉄砲を注文する。その時の資金力の大きさは4200人の軍団を一年間養える資金に相当する。織田家はすでにその当時から相当の貨幣力を蓄えていたことになる。