信長の破壊の流儀 - 第4回 信長の破壊と革新

織田信長は天文20(1551)年に織田家の家督を相続、天正10(1582)年に本能寺の変で倒れるまでの31年間という短期間に急激な成長を成し遂げている。

それを端的に表すのが信長が支配した地域の石高である。

家督を継いだ時期の信長の領地の石高はせいぜい6万石程度の規模であったと見られる。それが本能寺の変の時期にはおよそ700万石程度までに拡大、116倍もの急成長をわずか31年間で実現している。これは石高だけで試算した成長性だが、貨幣資産や兵員動員能力などの他の指標で多面的に見れば、日本史上、空前絶後の驚異的な成長のダイナミズムである。

信長の急成長に比べて、上杉、武田、毛利、北条などの他の有力戦国大名の石高は、50万石から200万石の間を上下して推移するレベルに止まっている。信長と他の戦国大名との間では成長の次元が明らかに異なっている。

だとすれば当然ながら、信長は他の大名とは異なる成長のための創意工夫や仕組みを持っていたはずである。それがなければ、他の有力大名の成長の限界点である200万石を超えたどこかで、織田家はその急成長による様々な反動や副作用に耐えられず、組織の自壊を起こしていたはずである。

では、信長はどのようにして、この急成長を可能にしたのか。それは、信長が力を注いできた「4つの革新」にある。すなわち、
1.経済革新
2.技術革新
3.組織(経営)革新
4.政治革新である。

“革新”とは“破壊”を伴う。“破壊”を拒む人の意識が壁となる。権益の組み替えにかかわる革新はとくに人の意識の反発を生む。その主なものをここで幾つか取り上げる。