信長の破壊の流儀 - 第3回 信長の“命がけの工夫”

そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえども決して恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。

美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。

だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識改革がなければならない。信長の理想とするものに、家臣の意識をぐっと引き寄せる工夫がなければならない。間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。

父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面を敵に囲まれた状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。

1つ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はいかにリーダーとして人の意識の壁と戦い、天下布武というビジョンの実現に邁進できたのか。ここで考察を加えたい。