信長の破壊の流儀 - 第6回 岐阜の城下町は「バビロンの雑踏」
フロイスの「日本史」は岐阜城下町の様子をこのように伝えている。
「取引や用務で往来するおびただしい人々で道はにぎわい、一歩、店に入れば、商いと雑踏で家の中では自分の声が聞こえぬほどだった。昼夜、ある者は賭け事をし、飲食、売買、また荷造りに忙しく立ち働いているのだ。人口は八千人ないし一万人で、バビロンの雑踏を思わせた」
宣教師ルイス・フロイスによると岐阜の城下町はさながら「バビロンの雑踏」の様相を呈していたという。訪れた人々は楽市楽座のもたらす豊かさを実感していた。楽市楽座は今川義元、斎藤道三、六角承禎などがすでに部分的に実施していた領国経済振興策である。
しかしながら、本格的に導入したのは信長である。信長は商業、通商から上がる富の掌握という視点から楽市楽座に注目し、永禄10(1567)年に岐阜城下加納市場を楽市とした。更に、翌年には、楽座令を発布。商取引における既得権益を排し、自由に誰でもが商業や手工業に従事できるようにした。天正5(1577)年には、安土城下において楽市楽座を実施する。また、永禄7(1568)年、信長は嶺国内の開所をすべて廃止する。
それまで、たとえば伊勢の桑名と日永との約4キロの間には40もの関所があった。また、大坂と京都を結ぶ淀川の問には約400ヶ所の関所が設けられていた。これらの従来の経済活動のしくみの“破壊”は、新たな経済活動のしくみの“革新”を生む一方で、既得権益を持つ多くの商人や石山本願寺、比叡山延暦寺など座の特権を付与していた宗教勢力の反発を招くこととなる。とくに、信長と宗教勢力との戦いは壮絶を究める。本願寺や延暦寺などの仏教勢力との対立は表向き政教分離のための戦いであるが、実態は、この経済権益を争う経済戦争であった。
信長の最大の敵はこの、既得権益を死守しようとする宗教勢力の意識の壁であったと言える。