信長の破壊の流儀 - 第8回 仏教勢力との戦いは経済戦争
実は、信長と石山本願寺一向宗との争いは信長が天下布武を唱えるかなり以前から始まっていた。
信長の育った東海一の港町、津島は、一向一揆が盛んであった伊勢長島と川を1つ隔てたところにあった。当時、津島も長島も新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民などの新興勢力が活躍した地域である。
信長は祖父の代から、彼らを巧みに取り込みながら織田家の勢力拡大を図ってきた。信長の組織が他の戦国大名と異質の輝きを持っているのは、これら新しい価値観を持った新興勢力を主体にした集団だったことによる。
木曽川下流域一帯に根を張ってきた川並衆や津島衆など独立性が高かった新興勢力を信長は家臣団に組み入れていった。これらの新興勢力が組織の中核となり、信長が1551年に家督を継いでから1567年に美濃攻略するまでの、いわゆる、離陸(テーク・オフ)期間において、信長の快進撃を支えた。
同地域において勢力を伸ばそうとしていた一向一揆は織田家にとってはその生命線である商業、流通を中心とした経済権益への大きな脅威であった。また、新興勢力の囲い込みという面においても一向一揆とは真っ向からぶつかっていた。
その中で、信長は「宗教」の怖さ、特に「来世利益」を求心力とする死を恐れぬ一向一揆集団の怖さをいやと言うほどに思い知らされた。その原体験が、その後の石山本願寺に対する徹底的な残滅戦略につながっている。
信長と本願寺との戦いはまさに経済戦争である。先に述べたように、石山本願寺は新興勢力を取り込み巨大な経済力を誇っていた。また、各地にある一向宗の末寺は農民に対して農業技術向上のサポートを行うなど精神的な面だけでなく経済的側面での指導的役割を果たしていた。さらに、当時は寺社の周辺は市場(流通)形成の場となっており、特権商人、職人による座の形成に伴い、その許可証を寺社が発行することが一般的であった。
次回はこの戦いを「現世利益」と「来世利益」という視点で見てみる。