信長の破壊の流儀 - 第13回 家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」へ

信長は、家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」に変革した。

鎌倉、室町期の武士は「土地」への執着が強かった。もともと武士の発祥は土地の開拓開墾者である。彼らは自らが開拓、開墾した「土地」を懸命に守ることを本領とする。「一所懸命」である。そして、その「土地」を保護してくれる者に対して忠誠を誓う。

「一生懸命」は、「土地」を媒介とせず、直接忠誠を誓うことである。信長が天下布武に邁進できたのは、彼の家臣団が、信長に対する直接の忠誠、つまり「一生懸命」の意識を、他の戦国大名の家臣団よりも持っていたことによる。

信長は、この「一生懸命」の意識作りのため、上述したような施策も含め様々な工夫を実施してきたが、信長の直接支配の強化を最も支えていたのが、信長が育てた官僚集団である。彼らの信長との主従関係は「服従」を旨とし、まさに、「一所懸命」ではなく、「一生懸命」に信長に仕えた集団であった。その母体は、信長の近習団である。

彼らは、小姓衆、馬廻り衆、右筆、同朋衆、奉行衆などと呼ばれ、信長の指示のもと様々な業務をこなす機能集団であった。

他の戦国大名たちも、小姓衆、馬廻り衆など「服従」をベースとした主従関係の結びつきを持った者たちを周りに置いていたが、その人数規模は小さく、信長ほど大規模な近習組織を編成していなかった。

信長の近習団は当時、最も機能化され、組織化された集団であった。信長は出自の関係なく、能力のある者を積極的に採用、政治、経済、軍事、文化など様々な分野で、信長の目、耳、手足となって多くの施策を遂行させた。また、彼らには信長個人に対する忠誠だけではなく、信長の描くビジョンや新しい国家観への忠誠が求められた。この近習集団が信長の天下布武というビジョン実現の先兵となる。

次回はこのシリーズとしての最終回、信長が残した天下統一への道筋について説明したい。