(コラム)信長のリーダーシップの本質3:ビジョンの提示

信長ほど自らのビジョンを明確に打ち出した戦国部将はいない。

「天下布武」と刻まれた印判は、信長の意思、志を内外にはっきりと示している良い例である。ちなみに、他の戦国部将の例を見ると、上杉謙信の印判は「地帝妙」で、「地蔵、帝駅、妙見」といった宗教的意味合いを持ったものだった。北条氏綱のものはr禄寿応穏」。その意味は「天与の恵み、長寿、まさに穏やか」である。これらは、自らの方針を説明するというよりも、神の加護を期待する言葉、あるいは祈願の言葉と言える。

印判は「天下に武政を布く」という明らかなどジョンの表明になっている。

永禄10(1567)年、美濃平定を終え、本拠をそれまでの小牧山から、美濃斎藤家の主城、稲葉山城に移転した時から、信長は「天下布武」の印判を使い始める。同時に、稲葉山城下の「井の口」を「岐阜」と地名変更している。これは、周の文王・武王が岐山に拠って股を滅ぼし、天下統一を果たした故事にちなんでいる。「阜」は丘の意味である。すなわち、この新しい本拠地を日本の岐山として、ここから我が天下統一が始まるという信長の意思が伝わってくる。地名もビジョン表明の手段にしたわけだ。

信長の御旗(本陣に立てる巨大な旗)は「永楽銭」である。当時、全国で流通していた宋銭だ。

戦国時代、御旗には家紋をあしらったものや、軍神の名前を表記したものが多く見られる。九州の島津氏は家紋を御旗にしている。毛利氏は家紋に、軍神の名を表述してある。

戦いの天才と呼ばれた上杉謙信は軍神毘沙門天の「毘」を御旗のトレードマークとし、ライバルの武田信玄は中国の兵法書「孫子」から取った有名な「風林火山」を御旗とした。

信長がなぜ「永楽銭」を御旗としたのか。家紋でもなければ、戦いに強そうなシンボルでもない。「永楽銭」は当時最も流通していた銅銭である。金銀のような素材価値はない。中央政府によってその流通が保証されたものでもない。しかしながら、なぜか交換価値を持った銭として全国的に認められていた。当時はまだまだ物々交換が幅を利かせていたし、米も交換価値として使われていた。そうした中で、コンパクトで持ち運びができる永楽銭は全国スタンダードの極めて便利な貨幣であった。

信長が永楽銭を自軍のシンボルとしたのは、1つには貨幣経済に対する意識の高さの表れだろう。楽市楽座の創設や開所の撤廃などの商業・流通振興策によって、領国の富裕化を図った信長は、他の戦国大名に先駆けて、兵力と農民を切り離す兵農分離に成功した。人々が土地に至上の価値を置き、配下武将への恩賞も土地を基本とした時代に、信長は商業がもたらす膨大な富によって、〝富国強兵〝を図ったのだ。いわば、貨幣経済を支える永楽銭は、自らの国家経営の方向性を示す格好のシンボルだったと言える。

また、「全国で通用するスタンダード」という永楽銭の性格は、「普遍性」に通じる。戦国大名が割拠する時代状況の中、信長は「永楽銭」を旗印のシンボルにすることによって「われとわが思想こそが(永楽銭と同様)全国津々浦々のスタンダードになる」といったメッセージを込めていたのかもしれない。今で言うならば織田軍は「グローバル・スタンダード」を標榜したことになる。

安土城も、壮大なメッセージ発信装置と言える。

信長の創った安土城とは「見せる城」であった。あたかも、能舞台で辛苦舞を舞うがごとく、信長は安土城を自らのビジョンを演出する「舞台」として考えた。

安土城は、多くの人々の度肝を抜く威容を有した。天にそびえ立つ7層の吹き抜け構造の「天主」、京都の清涼殿に似た荘厳な本丸御殿、金箔をふんだんに使った装飾、狩野永徳を中心とする当代一流の絵師による絵画、大手門から本丸へ向かって一直線に伸びた幅6m、長さ180mの道、当時は先端技術であった石垣で囲まれた構造物、仏教のみならず、道教、儒教、キリスト教などを包含した宗教空間の設置(総見寺、地下1階の宝塔、天主の6、7層階の宗教装飾)、など、安土城を見た人々は信長が標榜する「天下布武」の向こうに、安土城の名前の由来である「安楽浄土」を暗示させる何か新しい世界の広がりを感じ取ったに違いない。

信長は安土城を舞台として様々なイベントを行った。1581年のお盆祭りの際には、数万の提灯で安土城を飾り、琵琶湖に松明を持った無数の船を浮かべた。さながら、1933年にヒトラーが高性能サーチライトを無数のナチス党員に持たせ、演出させた、史上有名な「光の大聖堂」のごとくである。

また、1582年、信長は正月には前代未聞とも言うべき安土城の有料見学ツアーなるものを実施し、一門衆、隣国の大名、部将、安土城下の庶民に城内を公開している。

こうした、言語・視覚的シンボルを通じたビジョンの表現以外にも、信長は人事政策や報酬制度、あるいは戦争の方法などにおいても、自らの信条や理想を強烈に発信している。それについては、また別段で詳述したい。

印判から城まで、あらゆるものにメッセージを込め、伝達メデイアにしてしまう信長の戦略コミュニケーションの発想は天性のものであるとしか言いようがない。