(コラム)信長のリーダーシップの本質4:人を動かす仕組み作り

どんなに時代の先が見通せても、どんなにビジョンが素晴らしく表現され、理解されやすくても、その実現に向けて必要な人々の意識が変革され行動変化が起こらなければ、何事もおこらない。いかにビジョン実現に向けて人々の行動変化を仕掛けるか。何時の時代においても、リーダーシップを発揮する上で、もっとも大きな課題である。

戦国時代、信長の家臣団ほどその意識のベクトルが統一された組織は見当たらない。「天下布武」という1つのビジョンに向かって、末端から中枢まで組織全体が足並みを揃えて突き進んでいるという印象が強い。

信長の家臣団は戦国時代において最もワーカホリックな集団であった。
その忙しさたるや他の戦国軍事組織の比ではない。特に、1567年美濃攻略後、上洛戦を開始してから1582年に信長が本能寺で倒れるまでの15年間、将士から足軽に至るまで東奔西走の日々であった。彼らをひたすら信長のビジョン実にこ駆り立てたものは何だったのだろうか。

1つには、他の軍事組織と違い信長の軍団が戦闘専業集団であったことが挙げられる。他の戦国大名の戦闘集団が、農件業にも従事する国人層から構成されているのに対して、信長の戦闘集団はただ戦うことだけに集中すればよかった。

2つ目に、組織の中枢から末端に至るまで、信長のビジョンの実現が自分たちにとってどのようなメリットがあるのかを実感していたという点が指摘できる。「天下布武」が単なる能書きではなく、その実現に向けて実績を残せば、確実に出世ができる、経済的にも豊かになれるといった実質的利益が伴っていた。身分の貴賎は問わない。年功も不問。木下藤吉部、滝川一益など、出身さえ定かでない新参者でも、信長のビジョン実現に貢献すれば、どんどん出世していく。信長家臣団の全構成員はそうした姿を、自分に重ねられた。

しかも、信長の期待に応えた者への報酬は幾何級数的に増える。他の戦国大名の報酬体系が、年に数%のベースアップを基礎とする「伝統的日本企業型」だとするなら、信長組織のそれは、ストックオプション(自社株購入権)によって年収が何十倍にもアップする可能性がある「アメリカンドリーム型」と言えるだろう。

当時の報酬の基本形態は「土地」である。「土地」は幾何級数的には増えない。いくら信長組織が当時ダントツの成長率を誇っていたとしても、新たな「土地」を獲得していくために掛かる時間、労力、コストを考えると「土地」だけを原資にしては、この高報酬体系は維持できない。

信長の真骨頂は、原資を創り出すための価値基準を多様化したことにある。信長が提示した新たな価値の1つが「銭」である。「土地」に依存した原資確保の仕組みから「貨幣」をベースとした原資獲得の仕組みに大きくシフトさせることで、他の戦国大名にはなし得なかった魅力的な報酬体系を実現した。

信長は「銭」の供給という面では、金銀の鉱山開発の展開、決済手段としての金銀の普及、選銭令による流動性の増大などの施策を打っている。「銭」の需要面では、楽市楽座の導入、関所の撤廃などの経済政策を実施している。

また、信長は茶の湯と茶道具にも、貨幣と同等あるいはそれ以上に魅力的な価値を付与した。信長はその武力と財力で、名品の茶道具を狩り集めた。しかし、部下が自前で茶の湯を行うことを固く禁じた。これによって、信長家臣団の中では、茶の湯と茶道具の価値がインフレーションを起こす。そのうえで、武功を立てた者を茶の湯に招き、特に功の高かった者には、茶道具を与え、茶の湯を主催する特権を与えた。

天正10(1582)年の甲州遠征で功績高く、上野(今の群馬県)と信濃二群を与えられた滝川一益などは、一国一城の主になったことよりも、信長に拝受を願っていた茶入れ「珠光小茄子」が与えられず、京から離れ茶の湯の楽しみを奪われたことに大いに気落ちしたという。名物の茶道具は信長の深謀によって、一国にも勝るほどの価値を持ったわけだ。

そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。

間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。

ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。

信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。

信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。

変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。

第2の要素は「ビジョンの提示」である。

先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。

この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。

信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。

どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。

信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。