(コラム)信長のリーダーシップの本質5:情報専門家集団

戦略コミュニケーションの発想で大切なことは情報の「収集」と「発信」をどう考えるかである。

一般的に情報の収集と発信は別のものと考えられがちである。情報収集というと「状況分析のために」という発想から情報収集が行われている。これを「発信のために」情報を収集するという発想に変えることが戦略コミュニケーションの発想である。情報の収集と発信を一体として捉えることができる感度である。この発想がメッセージ力を飛躍的に高める。

リーダーは誰にもまだ見えない先を読み取り、未来に向けた明解などジョンを示さなければならない。そのためには、システマチックに情報を収集し、分析し、システマチックにメッセージを発信するための専門家、組織、ネットワークが必要となる。

信長の作り上げた組織とネットワークを腑撤すると、いかに彼が情報の収集・分析・発信を重視しており、自らの「想い」を分かり易いメッセージに置き換え、それを効率よく社会に伝播させるかを者え抜いてきたかが分かる。

信長のCIA(中央情報局)ともいうべき情報のプロ集団と分厚い情報ネットワークを分析してみよう。この情報組織は大きく分けると以下の4つに分類できる。

  1. 組織化された近習団
  2. 表現のプロ集団
  3. 茶頭
  4. その他のネットワーク

これらそれぞれについて、更に詳しく見て行こう。

1 組織化された近習団

信長は早い時期から近習団を機能的に組織していた。他の戦国大名と比べるとその規模は大きく、多機能集団の体をなしていた。その役割は、単に日常の世話をする秘書的な業務に留まらず、信長の手足、目耳、そして頭の役割を担っており、以下のような機能をもっていた。

  • 信長への取次ぎ機能
  • 信長が発行する朱印状(命令書)に添える説明文である副状の発給機能
  • 信長の意を伝える使者機能
  • 信長の意志を伝えるだけでなく観察も行う検察機能
  • 信長の重要来客への接客機能
  • 堺、大津、草津などの重要拠点における代官機能
  • 各種プロジェクトの企画、管理、遂行を担当する奉行機能

信長は巨大な軍団組織を手足のように使った。信長軍団の主力が5つに分かれた方面軍あったことは、別段で述べた。方面軍は羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家らの部将に率いられた自立性の高い垂直統合組織であった。企業組織にたとえれば利益・収益センターとしての事業本部に相当する。これに対して、信長直轄の近習団は横断的機能を持っていた。企業で言えば、社長室、企画室、広報室といった役割である。各方面軍に分かれた信長軍団が、信長の意思をよく体現し、戦功を重ねられた一因は、方面軍に横串を通す神経系の役割を担った近習団の優秀さに求められる。

2 表現のプロ集団

信長は自分の理想や想いを文章や絵画、建築などの形に表現するプロを数多く起用した。

信長のビジョンを「天下布武」という言葉に表現した臨済宗の禅僧である沢彦宗恩、信長の世界観を安土城の襖絵に描いた狩野永徳、信長の考え、視点を文章化した武井夕庵…。これらの人物は、配下の有力武将に勝るとも劣らないほど、信長の天下事業にとって重要な役割を果たした。

彼ら以外にも、信長ビジョンの最大の象徴である安土城の構築には最先端の技術、技量をもった無数の職人、石工、大工、が動員された。これらプロフエショナル達をフルに動員することによって信長は自らの意志を分かり易い形で、外部に向けて訴えることができたのである。

3 茶頭

信長は茶会を情報収集、発信、そして分析の「場」とした。

茶頭とは簡単に言えば、茶の湯の指南役である。その茶頭は、単に茶会を取り仕切るだけでなく、茶会の「場」での情報のやり取りの中で、信長に対していろいろな視点からのアドバイスを行った。信長の茶頭を務めたのは、津田宗及、今井宗久、千宗易らである。この3人は日本最大の商都堺の有力商人であり、情報感度という点では当代トップクラスの人材でもあった。当時の堺は、日本最大の内外情報の集積地であった。信長は堺衆のその秀でた分析力を、茶頭という形でおおいに活用したのだ。

そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。

間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。

ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。

信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。

信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。

変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。

第2の要素は「ビジョンの提示」である。

先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。

この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。

信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。

どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。

信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。