(コラム)信長のリーダーシップの本質6:安土城・ビジョンの展示場

広辞苑には「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」とある。この定義からすると安土城は、まるで城らしくない。何しろ信長は安土城を一般に公開しているのだ。

キリスト教宣教師、ルイス・フロイスの「日本史」によると、貴賎を問わず、多くの人々が安土城の「見学ツアー」なるものに参加したという。

「(信長は)すべての国に布告を出させ、男女を問わず何びとも幾日かの間は自由に宮殿(本丸御殿)と城を見物できる許可を与え、入城を認めた。諸国から参集した群衆は後を断たず、その数はおびただしく、一同(宣教師)を驚嘆せしめた」(『日本史』)

軍事施設は秘密を旨とする。だとすれば一般公開など正気の沙汰ではない。だが、視点を変え、安土城を信長のビジョンの一大シンボルだと考えれば、一般公開はすんなりと腑に落ちる。この何とも不可思議で魅力的な建造物に託した信長の思想も見えてくる。そうした観点から安土城を見直してみよう。

安土城の西側に広がっていた城下町と天主(天守)のある城の中枢部とは百々橋口道という一本の道で結ばれていた。その途上に総見寺という寺が建立されていた。軍事施設である城に寺を建立すること自体前代未聞である。人々は登城する際には、この寺を通過し、天主のある本丸に登ることになる。そして、この総見寺には、信長の代わりとなる神体である「盆山」と称する石を安置した。

フロイスの「日本史」によると、信長は、総見寺を訪れた人には御利益がある旨の掲示を掲げた。

「富者にして当所に礼拝に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低き者、購しき者が当所に礼拝に来るならば、当寺院に詣でた功徳によって、同じく富裕の身となるであろう。しかうして子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は、ただちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう」

当時、民衆に対して最も魅力的なメッセージを発信し、その行動をコントロールしていたのは、石山本願寺を頂点とする一向宗(浄土真宗)である。一向宗も人々に「先」を見せることによって人々の行動を駆り立てていた。それは来世での御利益である「極楽往生」である。

百年以上も続いた乱世の中、多くの人々がこのメッセージに共感し、極楽往生を願って命懸けの一揆に参加した。一方、信長が建立し、神体である盆山を置く総見寺は、現世での御利益を強調した。信長が目指す「天下布武」によって、現世での御利益が実現するといったメッセージを、貴賎を問わず、安土城を訪れた多くの人々に発信したのである。

7層構造の安土城天主においても、信長は同様の仕掛けを行っている。

天主の復元調査からは、第6層目が仏教空間として設計されていたことが分かる。らせん状の二重構造で、まず外側の廊下をめぐってから内側の空間に入る回廊構造になっている。外側の壁には、餓鬼や鬼など地獄の様子が、そしてその先は二匹の龍が措かれている。内側の空間は金色に装飾され、釈迦とその10人の弟子を描いた「釈迦説法図」が掲げられている。

地獄図が「戦乱の世」を、龍が「信長による天下布武」、内側の空間が「極楽浄土」を象徴している。

「まず、地獄図によって表される戦乱の世の中がある。これは信長が登場する以前の様相である。次に龍に象徴される信長が武力をもって登場し、天下を治める。信長による天下平定がなった暁には、極楽浄土が現出する。そういう様子を、回廊をめぐることによって表現しようとしたのではないだろうか」(『信長の夢「安土上」発掘』)

信長の真骨頂は、「天下布武」の基本メッセージ(=信長が武力によって天下を統一した際には豊かな平和な世になる)を安土城下町の賑わいを通じて人々に実感させたことにある。交通の要衝にある安土に楽市楽座を導入する。その上で、様々な職能分野や芸能における最優秀者を表彰する「天下一」政策を展開。安土城見学ツアーを実施し、相撲大会などのイベントも開催する。こうした諸政策によって、安土に多くの人々を集めた。

その結果、安土城下町は当時のパリとも匹敵するほどの賑わいを誇ったと言われる。この地を訪れた人々は安土城を見ることによって、「天下布武」の意味を認識し、安土城下町の賑わいの中で平和で豊かな社会への方向性を実感した。

安土城は信長のビジョンの総集編である。信長のすべての「想い」が実感できる壮大な展示場である。人は経験によってその意識や行動が変る。これが信長の戦略コミュニケーションの発想である。安土城は信長のビジョンの広告塔として機能し、安土城下町は信長のビジョン実現のもたらす成果物を実際に味わい経験することができる巨大試食会場の役割を担っていた。