麻生首相の2つの演説(1)”反省と謝罪”

7月21日、麻生首相は2つの演説を行った。ひとつは、自民党両院議員懇談会で、もう一つは解散記者会見においてである。

2つの演説ともまず”反省と謝罪”から始まる。
しかしながら戦略コミュニケーションの視点から見るとその評価は分かれる。

麻生首相が思わず涙ぐんだ自民党両院議員懇談会でのスピーチの評価は基本的に””である。このスピーチの相手は自民党の反麻生派の議員である。

すでに両議員総会ではなく両議員懇談会に決まった段階で、反麻生派にとっては、”麻生おろし”は不可能になってしまった。選挙日程は迫っている中、あとは、どうやって振り上げてしまった拳を降ろすタイミングをはかるか、そして自民党からの公認を受けるかが反麻生派議員の緊急課題であった。

麻生総理の反省と謝罪、そして”涙”は拳を降ろす上での”渡りに船”であった。その結果、「今までの反麻生騒動は何だったのか」と思わせるほどに全自民党議員が一致団結を表明、反麻生派の急先鋒であった中川元幹事長までもが麻生総理と握手するといったシーンもあり、”デキレース”ではないかと疑ってしまうぐらい30分ほどで無事閉会する。

この意味では、麻生総理の演説の効果はあったと言える。東国原知事が「総裁候補に!」と言って世論の“ひんしゅく”を買い、二進も三進も行かなくなった状況に追い込まれていた時に、ビートたけしが東国原知事に諫言する形で知事の引き際を演出したのと似ている。

コミュニケーションには基本的に”守り”のコミュニケーションと”攻め”のコミュニケーションとがある。通常、クライシスなどの場合は”守り”のコミュニケーションの原理・原則に則ってメッセージを発信する。
今回の両議員懇談会の場合、麻生自民党執行部にとっては一種のクライシスである。前にこのブログで小沢一郎民主党代表の西松建設献金疑惑に対する基本対応はクライシス・コミュニケーションである旨を書いた。

クライシス・コミュニケーションの基本は、まず被害者への謝罪である。

次に被害者の抱えている課題を解決するための決意と行動を示すことである。クライシスには必ず”被害者”が存在する。今回のケースの“被害者”は麻生総理のメッセージの”ブレ”によって、選挙で逆風を受け、危機感を募らせている反麻生派の議員の人々である。麻生演説は、反麻生派に謝罪の意を表明、彼らの課題である“どう引き際を演出するか”に対して、その大義名分、“きっかけ”を提供した。

この意味では“守り”のコミュニケーションの原理・原則に則っている。よって評価は“”である。

問題は、懇談会を公開にしたことである。

「二頭追う者は、一頭をも得ず」という格言があるように、戦略コミュニケーションでは、ふたつ以上の相手を追うのは基本的に“ご法度”である、“NG”である。
相手を必ずひとつに絞り込むことである。

公開することによって、麻生総理はふたつの異なる人々、つまり反麻生議員とテレビを見ている有権者、を相手にすることになる。反麻生議員に対しては、そこには前述したように“クライシス”の構造があるから、“守り”のコミュニケーションで対応することが適切であるが、有権者に対しては、“否”である。

選挙コミュニケーションの本質は“攻め”のコミュニケーションである。国民の課題が何であるかを示し、争点を明らかにし、それを解決する政策を提示し、そしてなぜ自分でなければその政策を実現できないかを“主張”する“攻め”のコミュニケーションである。

有権者は“謝罪や反省”を求めているわけではなく、今、国民の目の前にある課題をどのような“覚悟”で解決してくれるのかを聞きたがっている。

麻生総理の“涙”は“覚悟”からきた涙ではない。
党が一致団結したシーンを見たことによる“感慨”からきた涙である。

これでは国民の共感を得るには弱すぎる。懇談会を公開することがコミュニケーション上効果があるという判断なのかもしれないが、それは間違っている

反麻生派議員には“守り”のコミュニケーション、国民には“攻め”のコミュニケーションと別々に打つべきであったのを、公開にしてしまったため、国民に対して“守り”のコミュニケーションで対応してしまった。謝罪と反省、感慨の涙からは次の4年間日本を率いるリーダーとしての“麻生首相”の姿は、国民にはイメージできない。(続きはこちら

懇談会全体の様子(自民党 橋本岳氏のブログ)

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