“独立自尊の精神”が強い立ち位置をつくる ~視点を流動化できるかが要~
福沢諭吉曰く。
「広く日本の世事に就て之を視察するに、道徳に凝る者あり、才智に凝る者あり、
政治に凝る者あり、宗旨に凝る者あり、教育に凝る者あり、商売に凝る者ありて、
其凝り固まるの極度に至りては、他の運動を許さずして自身も亦自由ならず」
福沢諭吉はどうもこの「凝る者」を嫌ったようだ。
この「凝る者」とは、目の前で起こっている状況をひとつの視点からしか理解できず、その視点を金科玉条の如く考え、それに囚われる人のことである。文明開化の時代、封建社会から近代社会へと移り変わる中で、その挟間に取り残された多くの人が封建的な考え方を依然として固持する一方で、“西洋かぶれ”と呼ばれる多くの人が西洋の考え方に飛び付き、それを絶対的なものとして固守するという混乱の時でもあった。
いずれの場合も、ひとつの視点を“絶対化”するということで福沢諭吉はそれを「惑溺した精神」として忌み嫌った。人が主体性をもって自分の立ち位置をつくるためには、ひとつの視点に“凝る”ことは大いに邪魔になる。ひとつの視点に“凝る”ということは、その視点を主張し続けるということである。これでは異なった視点をもった相手との関係性はつくれない。ましてや自分にとって有意な関係性を構築、立ち位置をつくることなどはできない。自分の視点と相手の視点を如何に“止揚”(アウフヘーベン)するかである。言い換えれば、異なる視点をより上位の視点を使って統合することである。これによって、どっちの視点が勝ったか負けたかではなく、それぞれがオーナーシップ(所有意識)を持てる新たな視点が生まれ、双方の間に有意な関係性がつくられる。これが立ち位置をつくる基本プロセスである。
この“止揚”という視点の融合をはかるには、自己の視点を絶えず流動化することが求められる。ひとつの視点に凝り固まっていてはできない。
福沢諭吉は「実学」を通じて、価値判断を絶対化しない思考、物事を相対的に見る姿勢、そして知性の試行錯誤を通じて事物そのものだけではなく、その背後にある働きや他の事物との関係性などを見通す実験的精神を習得することが“独立自尊の精神”を培うと説く。言い換えるならば、視点の流動化ができるようになることが、実学を学ぶメリットであり、“惑溺した精神”を回避、ひとつの視点に囚われない自由な精神、つまり“独立自尊の精神”を養うことの重要性を主張した。
「学問のすすめ」は独立自尊の精神を通じて、主体的な立ち位置をつくるための“指南書”である。