世界で勝つ方程式、戦略コミュニケーションの発想 (3)

あらゆる事象の背後には”コミュニケーション”というカラクリがある。それを手繰って行くとひとつの力学が見えてくる。そのメカニズムを把握すると事象に影響を与え、目的実現に資する形で駆使できるという発想、戦略コミュニケーションという発想は何処から来たのか。考えてみるとやはり原点は80年代日米最大の懸案であった自動車通商摩擦での原体験である。それは戦うコミュニケーションから始まった。

「PRってなんですか?」、「分からぬ、ただ、これから企業にとって大事なものらしい。ホンダは見えるものに対しては強いが、見えないものにはどうも弱い、その見えないものを相手にするみたいだ。まあ、頑張って来い。」アメリカのワシントンDCへの赴任を前に上司から貰った餞別の言葉である。1983年7月、27歳の時である。

これがPRとの出会いであり、コミュニケーションという世界に足を踏み入れた時である。80年代初頭ホンダはアメリカでの事業の現地化を推し進める中で、ワシントンDCをPRの拠点とした。日本人の若手を一人よこせということで、何故か広報ではなく、海外営業に籍を置く自分に白羽の矢が立った。下手に広報の知識がない方が良いと思っていたのかもしれない。赴任早々、訳も分からない中でPR会社を雇った。それがフライシュマンヒラードである。その後、その「見えないもの」を相手に7年以上にわたりアメリカでのPR活動を展開することになる。

当時のホンダにとって「見えないもの」とはアメリカの世論である。その動向によって消費者の意識が変わる、販売店の離反が起こる、従業員が動揺する、そして政策も動く。結果、ホンダ車の輸入、販売、現地生産、リコールなどの訴訟対応などアメリカでの一連の事業活動に支障をきたすことになる。いくら品質の良い製品を持っていても、輸入できない、作れない、売れない、訴訟されるということになる。特にアメリカはホンダの生命線とも言うべき市場であり、その動向が経営全体に多大な影響を及ぼす。

1980年代の日米通商自動車摩擦は、今では想像できない程に激しいアメリカでの反日世論に晒されていた。シビックやカローラが失業者達の手で燃やされ、壊される事態が米国自動車メーカーの生産拠点であるミシガン州を中心に頻発していた。アメリカの自動車産業のメッカであるデトロイトで中国系アメリカ人が日本人に間違われてバットで殴り殺された悲惨な事件も起こった。
この過激な反日世論の背景には、日本自動車メーカーは大量の日本車を持ち込み、不当な競争力でアメリカ市場を席巻、アメリカ人の職を奪っているという「社会的空気」があった。自動車産業がアメリカの象徴であったこともアメリカ人の国民的自尊心を傷つけ、事態を加速させることとなる。

米国市場における日本車シェア急拡大の原因は70年代における二度に渡る石油危機により燃費の良い小型車へ需要が急激にシフトしたことである。大型車を主力としていたビッグ3(GM、フォード、クライスラー)はこの市場変化に対応できず、大幅な収益悪化にみまわれ、工場従業員の大規模な解雇を実施せざるを得ない状況に追い込まれていた。1978年10%程度の日本車シェアは1980年には20%以上に上昇、1990年に35%までになって行く。

このような状況の中、ビッグ3と全米自動車労働組合(UAW)がとってきた戦略は、この反日世論を意図的に煽ることによって、日本車を米国市場から締め出し、日本メーカーの米国工場を組合化することであった。アメリカの世論に配慮、米国政府の要請もあり、通産省(当時)は日本車の米国輸出を年間168万台に抑える自主規制を実施した。ビッグ3、UAW側は世論をテコに、この自主規制枠を縮小させるべく米国政府に圧力をかける。更には、日本メーカーの米国工場で生産された車もアメリカ製部品の調達比率が低いということで、輸入車として扱う現地調達法案を議会に提出する。この法案は75%以上の米国製部品を使用していない車は米国製とは認めない内容になっているが、ビッグ3でさえもこの基準は満たしていなかった。明らかに日本自動車メーカー狙い撃ちの法案であった。一方、組合側は、日本メーカーの中で最も現地生産が進んでいたホンダの米国工場の組合化を画策、ホンダを落とせば、トヨタ、日産の工場も落とせるという目論見である。

ホンダの課題は明確に3つあった。①自主規制枠を維持する。生産余力を持つトヨタ、日産は自主規制枠拡大の方針であるが、ホンダは日本からの供給余力がない。トヨタ、日産よりも進んでいた米国での現地生産を推し進めるほか選択肢がなかった。枠を維持することによって、アメリカの世論を緩和させ、一方、トヨタ、日産の日本からの供給を制限できるという狙いがある。②現地調達法案の廃案に持っていく。ホンダの方針は現地調達率をもっと上げて行くことであったが、それには時間がかかる。日本狙い撃ちということもあり、法案の内容も非現実的なもので、現地調達率の定義自身が曖昧なものであった。③ホンダオハイオ州工場の組合化を阻止する。これが最も深刻な問題であった。組合化されると、多品種少量生産の考えをベースとする日本的生産方式が導入できなくなる。当時のアメリカの生産方式は少品種大量生産で何百もの職種に生産工程が細分化され、職種別に賃金も違うという労務形態であった。全ての工程をひとつの職種とし、工程間の異動を自由に行い、多様な車種の生産に柔軟に対応、そしてチームで車の品質を作り込んで行くという日本的生産方式とは全く相容れないものであった。組合化するか否かの判断は従業員にある。組合側が選挙を仕掛け、投票結果が過半数であれば組合化される。

これらの課題はまさに経営に直結したものであった。そして生命線であるアメリカ市場でホンダが生き抜くための戦いであった。
当時、ホンダの会長であった杉浦さんが、ワシントンDCに来た時に言った言葉が今でも強烈な印象として残っている。「アメリカはいずれ太平洋の真ん中あたりに線を引いて、アメリカ側と日本側とをはっきりと分ける。その際に、トヨタ、日産は日本側に落ちても、ホンダだけはアメリカ側に落着くよう頑張れ」。要は「アメリカの世論をホンダの味方につけろ」という意味である。世論を味方につけることによって、アメリカでのホンダの事業現地化戦略推進への障害を乗り越えるという方針の打ち上げである。

それから7年以上にわたり、アメリカの世論をホンダの味方にするべく、試行錯誤が続く。当時やってきた事を今から俯瞰すると、それなりにPR戦略として整理されているように見えるが、当時はPRの理論云々よりも、実践の中で無我夢中にやれる事をやったというのが実感である。

下記に主にやった事を列記する。

① 日本自動車メーカーとしては未踏の地であり、ビッグ3やUAWが本拠を置く米国自動車産業のメッカ、デトロイトに日本メーカーとして初めて事務所を開設、当時、200人程の自動車産業を追っている記者の囲い込みに入る。当時、デトロイトは自動車記者クラブのような体をなしていた。Wall Street Journal, New York Times, Business weekの大手メデイアはデトロイト支局を置き、自動車産業をフォローしていた。

②自動車産業の研究拠点の双璧であったミシガン大学、マサチューセッツ工科大学、更にはハーバード、スタンフオード両ビジネス・ビジネス・スクールへの人脈作りを通じてホンダのアメリカにおける戦略、事業展開、その基本的考え方などへの理解を醸成、ケーススタデイーの作り込み、本の出版をし仕掛ける。

③アメリカにおけるホンダの事業活動最大のエビデンス(例証)であるオハイオ州工場にマスコミ、有識者、州・政府関係者、政治家を個別に招待する戦略を展開する。百聞は一見に如かずである。一日かけてツアーを敢行、ホンダの生産工程、開発、エンジニアリング施設見学、米国部品の調達状況の説明、アメリカ従業員との対話、取引米国部品メーカーへの取材、地域住民との対話集会参加などこちらのメッセージを打ち込む様々なコンタクトポイントをつくる。

④ホンダの各事務所の相手を明確にし、連携をしながら、一貫したメッセージを発信する体制をつくる。デトロイト事務所はマスコミ、学界を含む有識者、ワシントンDCは議会、政府、シンクタンク、ニューヨークは証券アナリスト、ロサンゼルスは販売店、自動車専門誌、オハイオ州工場は従業員、地域住民、州議会・政府、部品メーカーと夫々が明確に「相手」を規定して発信して行く仕組みにする。これは発信機能だけでなく、受信機能としても働き、世論の動向やホンダのメッセージ発信に対する反応をチェックすることができた。また、夫々の事務所に日本人を貼り付け、米国内における連携の強化と日本とのPR戦略の擦り合わせを迅速に行える体制にする。

⑤米国3大自動車会議へ積極的に参画をする。ミシガン大学、マサチューセッツ工科大学、最大の自動車産業誌オートモーティブ・ニュースが主催する自動車会議にスピーカーの提供、有識者、マスコミとの関係作りを積極的にしかけていく。
⑥ホンダの現地化戦略がアメリカの経済、競争力に大きく貢献するというメッセージを伝えるためのイベントを実施する。1985年に米国での開発、調達、生産、販売、海外への輸出を一貫して行える体制の構築を謳ったホンダ米国自立化戦略をオハイオ州ホンダ工場で記者会見、発表する。Wall Street Journalでは発表当日までの5日間、連続で一面トップ記事でホンダの米国現地化戦略を取り上げるなど、大きな反響を呼ぶ。1987年には日本自動車メーカーとして、初めて米国製ホンダ車の日本への輸出を開始、輸出港ポートランドで政治、政府、マスコミ関係者を招待、輸出イベントを開催、自動車マスコミのメッカであるデトロイトとポートランドをサテライトでつなぎ、ライブ・オンライン記者会見を実施する。更には、3大テレビネットワークに話を持ちかけ、うちABCとNBCが当日、ポートランドから生で全国に放映する。政治、政策の府であるワシントンDCに最も影響力のあるワシントン・ポスト紙に働きかけ、米国製アコードが日本に向けて船積みされる写真が一面トップで掲載を実現した。

⑦ホンダの「顔」をつくる戦略を展開する。当時、ホンダは商品ブランドは確立されていたが、企業ブランドが無かった。アメリカでの事業展開を可視化するだけでなく、ホンダの「顔」を見せることが、特にアメリカの世論に働きかけるためには必須であった。それには実際に事業戦略の意思決定を行っている日本人トップマネジメントを「顔」として売り出すことある。アメリカ人の顔ではなく、日本人の顔である。社内からは多くの反対があった。特に日本からは。アメリカの世論を相手にするなら、なるべく日本色は消す方が良いということがその論拠である。しかし、ここはアメリカの日本人トップのサポートもあり、強行突破した。結果、表面的にアメリカ人の顔を出すより、堂々と日本人の顔で勝負したことが世論に対しては効果が高かった。これは組織よりも個人に注目するアメリカの国民性に負うところが大きい。

⑧最後は、1989年、創始者、本田宗一郎さんが米国自動車産業の殿堂入りを日本人として初めて果たしたことである。殿堂入り受賞式では本田さんが「アメリカありがとう!ホンダはアメリカのおかげで一人前の自動車メーカーになれました。本当にありがとう!」とアメリカに対する感謝からスピーチを始めた。Thank youとHallowしか英語を知らない本田宗一郎さんは、ひたすら「ありがとう、ありがとう」とスピーチの中で連呼、話を終えたその瞬間に観衆からのスタンデイング・オベーションが起こった。その時は身の震えが止まらなかった事を今でも鮮明に覚えている。アメリカの世論を味方にしたという強烈な実感である。

PRとの出会いは、まさに戦うコミュニケーションから始まった。コミュニケーションは武力、財力、権力と並ぶ、あるいはそれ以上の、人を動かす力学であるという実感、それはホンダのアメリカの事業戦略を守ることに直結したパワーであるという認識がここから生まれた。戦略コミュニケーションの発想が体得できた原体験であった。