アーカイブ

Month: October 2008

  • (コラム)戦うコミュニケーションの発想の原点、世界最古の兵書「孫子」3:戦うコミュニケーションの本質 “人間の意識を囲い込め! (後編)

    目の前にいない多くの相手の意識を囲い込む、メッセージ戦争開始! 春秋時代末期、戦国時代に起こった戦争形態の構造変化にはもうひとつの側面があった。 限定戦から総力戦へのシフトである。春秋時代の戦争は前述したように「専門家による、専門家のための、専門家の」戦いであった。限定された地域での、限定された時間での、限定された専門戦士同士の戦いであった。ところが歩兵部隊を主力とする軍隊編成の出現によって、地理的な条件にあまり制約されず、遠国まで遠征することができるようになる。そうなると大部隊を遠い異国の地まで派遣するため兵站の充実が必要となる。更には、その兵站を支える本国の経済力の有無が戦争の勝敗に大きく影響してくる。まさに総力戦の様相を呈してくる。こうなると戦争に関わる人々の数が急激に増える。今までは戦場にいる敵・味方の兵士だけであったのが、兵站を司る要員、更には本国で経済を支えている一般人民、直接、戦争には関わっていないが周辺の諸侯・国など、今様で言うステークホルダー(利害関係者)が急速に多様化する。戦場にいる敵味方の将兵の意識だけではなく、より多くの関係者の意識を相手にしなければならなくなる。しかも、関係者が増えるということは利害関係が複雑に錯綜し易く、敵・味方と白黒がはっきりした構図は消え、状況によっては味方になったり、敵に靡いたりその意識は移ろい易くなる。言い換えれば、ステークホルダー(利害関係者)との関係性が絶えず流動化する事態に直面する。味方であったのが突然敵に豹変する。逆に敵であったのが味方に変貌する。そうなると戦いに勝つためには、戦場にいる味方の兵士の士気を高め、敵の兵士の戦意を挫くだけでは十分ではない。その戦力を後方で支えている様々なステークホルダーの意識を囲い込み、その支持を取り付け、その関係性を安定にする。一方で敵の戦力を後方で支えているステークホルダーの意識を揺さぶり、その支持を脆弱化させ、戦場にいる敵との関係性を流動化する。更には、友邦国との関係を強化すると同時に、敵とその友邦国との関係性を脆弱化させ、敵から切り離す。目前の戦場にはいない様々な利害関係をもつ相手に的確なメッセージを次々に発信していくことが戦いに勝つための鍵を握ることになる。勝敗は最早、戦場ではなく、目前の戦場にいない相手の意識を囲い込むため敵・味方双方がどうメッセージ戦を戦うかに軸足が移っていく。まさに戦うコミュニケーションの発想である。春秋時代末期に起こったこの戦争形態の構造変化が「孫子」というコミュニケーション力学に立脚した世界最古の兵書を生み出す。 「孫子」の本質は関係性のマネジメント  戦争は事象的には物理的な軍事力の衝突であるが、本質的には敵・味方双方の意識の衝突である。勝敗は兵を攻めることではなく、意識を攻めることによって決まる。 勝敗に影響するあらゆるステークホルダーの意識をどれだけ囲い込めるかが勝敗の明暗を分ける。相手の意識を囲い込むとは、相手との関係性を安定にすることである。コミュニケーションの力によって戦争に関係する様々な相手の意識を囲い込み、揺さぶり、そして動かす。戦うコミュニケーションの発想によって敵・味方、やその他多くの相手と戦略的な関係性を構築、それをテコに戦争を勝利に導く。言い換えれば関係性のマネジメントによって戦いに勝つことを説いたのが「孫子」と言える。これが「孫子」の本質である。21世紀に生きるすべてのリーダーにとって最大の課題は人間の意識の壁である。あらゆる変革を行う上で最大の敵は本質的に変化を嫌う人間の意識の硬直性である。孫子」は戦争に関わるあらゆる相手との関係性のマネジメントを説いた兵書である。ここに「孫子」を読み解く現代的意味がある。...

  • (コラム)戦うコミュニケーションの発想の原点、世界最古の兵書「孫子」2:戦うコミュニケーションの本質 “人間の意識を囲い込め! (前編)

    「専門家による、専門家のための、専門家の」戦い  戦争という国の存亡をかけた大事業を遂行する上で、コミュニケーションが重要な役割を持つという認識は「孫子」から始まる。「孫子」はコミュニケーションの力の活用をすべての戦略の組み立ての根底に置く。その背景を理解するには、「孫子」が生まれた時代に起こった戦争の構造変革を知る必要がある。「孫子」は中国の春秋時代末期(紀元前5世紀末)、呉の国の将軍を務めた孫武の作とする見方が強い。春秋時代の戦争は平原で展開された戦車戦が中心であった。戦車とは数頭の馬によって引かれた、御者と戦士が乗った戦闘用の車である。それらが百台、千台の数でぶつかり合うのが当時の一般的な戦争の形態であった。言うなれば「専門家による、専門家のための、専門家の」戦いであった。兵士は名誉を重んずる身分のある選ばれた戦士から成り、戦車を操る戦いの専門家たちであった。戦いもお互いが対陣の準備が整ってから開始された。相手の準備ができないうちに攻めることはご法度であった。戦いが始まれば、個々の戦士は自分の技量をフルに発揮、目の前の敵と戦うだけで、将軍からの指示も必要なく、全体戦略との連動もあまり関係がない。指揮官が捕虜になったり、敵に背を向けて敗走したりすると勝敗が決したものと判定され、それ以上は敗者を攻めない。戦いも一回の会戦の中で限定されていた。軍を率いる将軍は存在したが、専門の官職ではなく、身分の高い王侯、卿、大夫などの中から君主が随時任命、しかも軍を直接指揮するというよりは象徴的な存在であった。象徴を敵に取られたら負けといったチェスでいうキングか将棋の王将の駒のようなものであった。そこには戦いの“しきたり”があり、それを前提に玄人(くろうと)集団の中で戦いが完結されていた。人民も巻き込んだ国をあげての“何でも有り”の総力戦といった発想はなかった。 定型化した“まじめ”な戦いから不定型な“騙し”の戦いへ  ところが紀元前585年に揚子江下流域に居住する呉人によって建国された呉がこの戦いの構造を変えた。前述したように平原での戦争は戦車戦が中心で、歩兵は補助的な役割しか担わなかった。ところが呉は蛮蝦の出身であり、当時、中国の先進地域であった黄河流域の中原文化圏からは離れたところに位置していた。そのため、戦車のような先進的な武器とはもともと無縁であった。更には揚子江下流の水沢・湖沼地帯という呉の地理的条件によって軍隊構成は戦車ではなく、その主力は歩兵部隊であった。特に、呉は中原文化圏と違い、封建制による身分制度の確立が遅れていた。そのことが幸いし、戦士を調達する場合、身分的制約に囚われずに、一般の人民から戦士を募り構成することができた。これは大規模な歩兵部隊を編成することを可能にするだけではなく、戦車のように地形の制約を受けない、歩兵という融通無碍に展開できる兵力をもつことを意味する。戦車戦のような定型化され戦いに慣れていた中原の先進諸国は、呉が繰り出す自由自在にその動きや形を変化させる歩兵部隊によって翻弄される。それまでの戦車戦を中心とした様々な“しきたり”や“ルール”が前提となっている戦いにおいては、相手を騙して誘導するとか、相手の不意をつくとか、言った発想はない。ところが、兵力が歩兵中心となると戦いの形態は様変わりする。地形の制約から自由であるだけでなく、敵から姿を隠したり、密かに敵に近づき奇襲をかけたり、今までの定型化した“まじめ”な戦いでは考えられないような“騙し”の戦いへと変貌する。 敵を欺き、味方の戦意を上げるコミュニケーションの力 戦国時代になるとこの傾向は更に強まる。戦いのポイントが個々の戦士の戦う技量から、部隊全体が一体となって敵を“騙す”動きをとり、相手の不意を衝いて勝つ戦術へとシフトする。言い換えれば、戦い全体を見据えた戦略とそれに連動した部隊の動きが勝敗を決するようになる。そうなると、今まで象徴であり、飾りのような存在であった将軍の役割が見直されてくる。部隊全体を手足のごとく自由自在に動かし、敵を欺き、勝利を確実にする司令塔としての能力が将軍に求められてきた。「孫子」ではこの新たな将軍の役割、能力、心構えなどが懇切丁寧に説かれているが、その根底にはコミュニケーションの原理・原則に従って、敵の将軍や兵士の動きを思い通りに操るという考え方がある。一方、自分の傘下の部隊構成を見ると、従来の専門戦士ではなく、人民から召集した“素人集団”である。この“素人集団”から成る部隊を強力な戦闘集団に仕立て、自由自在に動かすためのしっかりとした意識付けの作業が重要性を増してくる。1対1の戦闘では専門戦士には敵わないが、集団戦では勝てるという体制を作り上げる仕事が将軍の責務となった。「孫子」は敵以上に味方の意識のあり方に詳細な気配りをする。性悪説を前提とした人間観をベースに、兵士の意識を如何にコントロールするかに腐心している。ここでもコミュニケーションの原理・原則に則った兵士の意識の囲い込みの工夫が説かれている。このように敵を欺き、味方の戦意を上げるためにはコミュニケーションの力を駆使することが必要だという認識が高まった。...

  • 戦うコミュニケーションの発想の原点、世界(コラム)(コラム)最古の兵書「孫子」1:戦うコミュニケーションの発想から「孫子」を切る

      意識 VS 意識 の戦い、コミュニケーションの力本領発揮!  コミュニケーションという行為はもともと「戦う」という行為と密接な関係にある。 「戦う」という行為には様々なものがあるが、その最たるものが武力と武力が真っ向からぶつかり合う「戦争」である。戦場で働く「力」は必ずしも武力とは限らない。所詮、「人」対「人」の戦いである。実際に戦場に投入された敵味方双方の将兵や兵士の心理や意識のあり方がその持てる武力以上に戦争の勝敗を決定する。俗に言う心理戦争がモノを言う。人類は有史以来、コミュニケーションを人の心理や意識に影響する力と認識、この「心理戦争」を戦うためにコミュニケーションの力を大いに行使してきた。   戦場においてコミュニケーションがその力を発揮するプロセスは極めて明快である。 敵に対してメッセージを撃ち込むことによって相手の心理や意識に働きかけ、味方が戦場において優位なポジショニングを築けるように相手の行動を誘導する。また、メッセージとはミサイルのようなもので、敵側から撃ち込まれてくるメッセージに対しては、迎撃用のメッセージで応戦、味方側の心理や意識への敵側からの影響を阻止する。このように攻撃用メッセージ、迎撃用メッセージを撃ち合う中で、敵の行動を誘導したり、牽制したりしながら徐々に味方に有利な状況を創り出していく。味方に優位なポジショニングを謀った上で敵に対して最終的に武力攻撃を仕掛ける。戦場においては双方の「武力」対「武力」の構図と同時に優位なポジショニングの確保を競うための目に見えない「意識」対「意識」の戦いの構図がある。実際の攻守を争う戦闘という事象の背後には敵の意識を攻撃する、味方の意識を守るという敵味方双方のコミュニケーション力のぶつかり合いがある。   戦うコミュニケーションの本質は優位なポジショニングの確立   この戦うコミュニケーションの発想は何も戦争の場だけのものではない。ビジネスや政治の最前線などあらゆる社会的活動の現場で展開されている。選挙などその最たるものである。選挙戦などは武力は使わないが、メッセージというミサイルを打ち合いながら、有権者の票の獲得を競うコミュニケーション戦争である。戦うコミュニケーションの本質は優位なポジショニングの確立である。それをテコに相手の行動を牽制、あるいは相手の支持を取り付けるなど相手を動かすことができる。その優越が「勝ち組」、「負け組」を決める。グローバリゼーションが加速する中で、政治、経済、社会のあらゆる分野において多様な競争者が出現、乱立する大競争時代に突入する。企業も国も個人も勝ち抜くための優位なポジショニングをどう確立していくかが大きな課題となる。戦うコミュニケーションに対する理解を深め、その力をフルに発揮する発想を持つことがますます必要となる時代になる。 「孫子」は戦うコミュニケーションの発想を明確に打ち出した古典  実際の戦争の戦略・戦術を説いた兵法書をコミュニケーションの視点から読み解くことは戦うコミュニケーションの発想を培うためには有効である。世に兵法書というと西の「戦争論」(クラウゼビッツ)と東の「孫子」と並び称されている。しかし、やはり最古の兵法書である「孫子」が群を抜いている。「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。」とコミュニケーションの力で相手を屈することが最善の策であると説いている。まさに「孫子」は戦うコミュニケーションの発想を明確に打ち出した古典なのである。「孫子」は中国の春秋時代末期、紀元前五世紀中ごろの書とされている。その内容は「計」、「作戦」、「謀攻」、「形」、「勢」、「虚実」、「軍争」、「九変」、「行軍」、「地形」、「火攻」、「用間」、「九地」と全部で十三篇からなる。初めの三篇である「計」、「作戦」、「謀攻」が総説とされ、四篇から各論に入る。「孫子」は今までに多くの専門家が軍事戦略・戦術面だけでなく、企業の戦略・戦術面での分析や考察を加えている。また、人生の処世術的な視点からも多く取り上げられている。しかしながらコミュニケーションという視点から取り上げられている例は殆ど皆無である。しかしながら、「孫子」を読み進めていくと、その殆どの内容がコミュニケーションを力として如何に行使するかを説いており、「戦うコミュニケーション」の原点となる本であると言える。 「孫子」の4つの特徴  戦うコミュニケーションの発想から「孫子」を読み解くと4つの特徴が指摘できる。 「戦わずして勝つ」を基本理念としており、武力衝突をなるべく回避するという強い姿勢を貫いている。武力の行使を最小化するということは、言い換えればコミュニケーション力をフルに活用するということである。コミュニケーション力を駆使、味方の戦意を高揚、敵の戦意を喪失させ、「戦わずして勝つ」を実践することを最重要課題と位置づけている。まさに「孫子」は戦うコミュニケーションの本質を説いた兵法書であると言える。 精緻な現実観察を通じて「敵を知る」ことが戦う前に勝負を知る上で重要であることを説く。これは現実観察を徹底することによって敵を知り、武力に頼らず敵を屈することに腐心するという「戦わずして勝つ」という基本理念とも一致している。また敵を知ることと同時に味方を知ることが重要であることが指摘されている。勝つためには敵・味方に留まらず、多様な「相手を認識する」ことが一貫して強調されている。コミュニケーションはまず相手を認識するところから始まる。多様な相手をどれだけ的確に認識できるかが、コミュニケーション力の優越を決める。「孫子」は相手を認識するというコミュニケーション力を使い切る上での基本を徹底して説いた兵法書であると言える。 戦場で敵に対して主導性を絶えず発揮することが強調されている。これは自分の敷いた土俵の上で敵と戦うことを意味する。こちらが作った土俵である全体戦略の枠組みの中に敵を引き入れ、その中で敵を追い詰めていくという発想である。コミュニケーションにおいても基本メッセージという土俵がある。この基本メッセージという土俵の上で相手と対話することがコミュニケーション力発揮の要諦である。「こちらの土俵の上で相手を転がす」という大原則は実際の戦争だけではなく、あらゆるコミュニケーションの戦いにおいて適用されるものである。 人間観として徹底した性悪説を貫いている。戦場におけるコミュニケーションの本質は敵、味方を含めたすべての関係者の意識を囲い込むための争奪戦である。そこでは性善説では弱い。性悪説を前提にした“ぎりぎり”の工夫が求められる。性善説に基づいた人間観ではコミュニケーションの本当のパワーを発揮することは難しい。 性悪説が戦うコミュニケーションの基本 日本のコミュニケーションの弱さは、その根底に性善説にある。今や政治も、外交も、ビジネスも性悪説に基づいたコミュニケーションが世界標準になりつつある。日本のコミュニケーションの根底に性悪説を導入することが、今後求められてくる。特にコミュニケーションを戦う力として使い切るためには、性悪説を前提とした人間観をもつことが必要不可欠である。日本は政治、外交、ビジネスにおいて、更には個人の世界においても今後グローバルな人材競争に晒される中、自らを戦うコミュニケーションの発想で武装することが強く求められる時代になる。「孫子」という世界最古の兵書をコミュニケーションの視点で読み解く現代的な意味がここにある。...