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Year: 2008

  • (コラム)小泉純一郎の戦略コミュニケーションの本質1: 小泉純一郎は救世主かヒットラーか。~敗者の視点から~

    小泉純一郎と3年間戦ってきた。 民主党から総選挙への協力要請を受けたのは2003年の6月である。 戦略コミュニケーションのコンサルティングが日本の国政選挙に初めて関わった時である。「マニフェスト」選挙と呼ばれた2003年11月の衆院選、「年金」選挙であった 2004年9月の参院選、そして「郵政民営化」の是非が問われた2005年9月の衆院選と3年間立て続けに国政選挙の場で小泉純一郎のコミュニケーション力学と戦ってきた。 特に最後の2005年の総選挙は一生涯忘れ得ぬものとなった。 「郵政民営化に賛成なのか、反対なのか国民に問いたい。」この小泉総理の一言が流れを決めた。あとは怒涛の如く押し寄せてくる小泉メッセージの凄さに翻弄され、そのまま9月11日の開票日までもっていかれた。結果、2005年の総選挙で民主党は大惨敗を帰した。巨大な竜巻に呑み込まれたような感覚は今でも忘れない。コミュニケーションの修羅場は数多く掻い潜ってきたが、その力の凄さをこれほどまでに身をもって体感したのは久々であった。敗者の視点から小泉純一郎のメッセージ力学を検証することが戦略コミュニケーションの本質をとらえる上で重要と考える。 2005年9月11日、何かが動いた。  流れは民主党にあった。 民主党は民主・自由両党の合併を梃子に2003年の衆院選挙で政権選択を迫った。 マニフェストを旗印に議席の大幅増を実現、2大政党制への布石を打った。 2004年の参院選は政界が年金未納問題でゆれに揺れた。自民・公明・民主、各党の党首を直撃、民主党では菅・小沢と辞任劇が続く中、無名に近い岡田克也代表が年金問題をテーマに人々の予想を超え自民に勝利した。「政権選択」、「マニフェスト」、そして、「2大政党制」という民主党が仕掛けた標語はマスコミや有権者の間に確実に浸透していた。機は熟しつつある。いよいよ次期衆院選での政権交代の実現は目前だという認識は確かに存在した。ところが、蓋を開けてみれば、9月11日の開票結果は小泉自民党の歴史的大勝利であった。自民党は84議席増やし、296議席を確保、自公による絶対安定多数を実現した。一方、民主党は64議席を失い、113議席と2003年衆院選前の勢力に追い込まれた。翌日の各紙の見出しを拾ってみると、 「驚異“小泉魔術”民主もぶっ壊す」(東京新聞)、 「自民マジックで席巻、民主牙城で崩壊」(毎日新聞)、「小泉劇場独り舞台、岡田民主“政権後退”」(読売新聞)、「小泉劇場大当たり」(毎日新聞)、「小泉突風造反飛ばす」(産経新聞)、「主役小泉一人勝ち、夢砕け民主は脇役」(朝日新聞)など自民VS民主という構図よりも「小泉」VS「民主」といった図柄での報道が目立った。また、魔術とか、マジックとか、劇場とか小泉純一郎のメッセージ性に起因した表現が多い。 小泉というひとりの政治家が仕掛けたメッセージに世の中が大きく反応、自民党の歴史的勝利を演出したという文脈である。 小泉流メッセージ発信によって何かが動いた。それも大きく動いた。 2005年の総選挙の投票率67.5%であった。2003年の総選挙より7ポイント以上増えた。 投票率が上がれば民主党有利という神話があった。投票率があと6ポイント上がれば政権交代だということはよく言われていた。かつて投票日に雨が降れば投票率が下がるので自民党に有利だと嘯いた政治家もいた。投票率が上がることによって無党派層の票が民主に流れ込む構図である。ところがその神話が崩壊した。地殻変動が起きた。無党派という範疇では捉えきれない不特定多数のかたまりが大きく動いた。小泉現象である。 6年前にも一度、この小泉現象が起こっている。 2000年9月の自民党総裁選挙である。「永田町の変人」というイメージしかなかったマイナーな小泉純一郎が、自民党の総裁選というステージで突然、脚光を浴びたのは2000年の9月である。「自民党をぶっ壊す」と連呼、「自民党を変えて、日本を変える」というスローガンを発信し続けた。自民党の総裁選でありながら、さながら国政選挙並みにマスコミは騒ぎ立て、小泉純一郎という政治家の存在が大きく全国的にクローズアップされた。 今では政敵になってしまった田中真紀子とのおしどり遊説の報道映像は多くの国民の脳裏に今でも焼きついている。異様なまでに盛り上がった小泉人気をバックに自民党固有の派閥人事をねじ伏せた。自民党最大派閥の領袖である橋本龍太郎元首相を破り、自民党総裁に就く。小泉純一郎のメッセージ力学が従来の自民党の派閥力学を超えた瞬間である。小泉自民党総裁を誕生させたのは、それは、最早、世論などという覚めたものではない。強烈なパブリック・パーセプション(社会的思い込み)の出現である。 「山」がまた動いた  小泉劇場を構成する3つの要素がある。ステージ・映像・主役である。まずは、ステージング(Staging)の上手さが際立つ。小泉が演じるステージを小泉が設定する。 郵政民営化法案の行方が微妙に揺れ動く中、解散するか否かが様々な憶測を呼んだ。解散すれば自民党が不利であるというのが大方の見方であった。週刊誌も「自民頓死、200議席割れ!民主241議席単独政権」(週間文春)、「自民党160議席割れで民主党・岡田政権誕生」(週間ポスト)などと囃し立てた。反小泉の自民党抵抗勢力は解散などしないだろうと高をくくる。一方、いよいよ政権交代だと浮き足立つ民主党。このような構図の中で8月8日の赤いカーテンを背景に小泉総理の解散演説がおこなわれた。四面楚歌という絶体絶命の状況下の中で敢えて不利を承知で郵政民営化という自らの“信念”を説く。 “国民に問いてみたい”という名台詞を吐いて解散宣言をする。絶妙なステージングである。このステージングの上手さが流れを変えた。有利であると言われていた民主党は一転、守勢にまわされ、小泉メッセージによる波状攻撃に完膚なきまでにやられる。 ステージングの妙は“意外性”である。この“意外性”の創出が小泉メッセージ力学の真髄である。小泉総理が誕生して以来、“サプライズ”という言葉が定着した。小泉流メッセージ発信はまさにこの“サプライズ”をテコにその伝達力を強化した。 その要諦はメッセージのコントロールである。敵を騙すには先ず味方からという思考である。限られたメンバーの中での小泉総理の陣頭指揮があって初めて可能となる。 政治のワイドショー化を加速させた、小泉総理誕生  映像に対する執着では小泉純一郎の右にでる日本の政治家はいない。2005年の総選挙で小泉の演出した映像3部作は刺客騒動、堀エモン、そして郵政遊説である。この3部作によって小泉はワイドショーの放映ジャックに成功する。郵政民営化反対の自民党“造反議員”候補ひとりひとりに対立候補を立てる。この策はそれぞれの選挙区の中で、自民党地方組織の分裂・自民党不利という構図を生んだ。しかしながら、“刺客騒動”と命名されたこの策は多くの注目選挙区を生み出し、マスコミが一斉に飛びついた。とくに各局のワイドショーは連日連夜、刺客騒動で揺れる各選挙区を報道する。この“刺客騒動”は2つの効果を自民党にもたらした。ひとつは民主党の放映時間が相対的に減ったことである。テレビ局は基本的に各党に対してその議席数の大きさに関わらず、平等に選挙報道の時間配分を行う。本来であるならば自民、民主、公明、社民、共産、無所属という形でそれぞれ1/6の放映時間の配分となる。ところが、“刺客”を放たれた選挙区では自民の時間配分が実際は2/6になる。造反議員とは言っても視聴者からすれば自民であることにかわりはない。結果として民主党の時間配分が相対的に減る。ふたつ目の効果は、「郵政民営化YES or NO」という自民の選挙テーマを視聴者にすり込んだことである。“刺客騒動”中心の選挙報道がなされる中で、郵政民営化に反対なのか、賛成なのかが大きくクローズアップされ自民の土俵である「郵政民営化”YES or NO」が総選挙の主題となる。一方、郵政民営化より大事なものがあるという考えに立った民主の土俵「郵政民営化 or 年金・子育て」は吹っ飛ぶ。当時、注目キャラであった堀エモンを亀井静香候補にぶつけた判断は映像的に絶妙である。亀井議員も抵抗勢力のドンといったレッテルが貼られており、堀エモンに十分対抗できるキャラである。世代間の戦いといったニュアンスも含みながら、個性豊かな二つのキャラが激突する姿はワイドショーの格好のネタである。刺客騒動や堀エモンだけではない、小泉本人も頑張った。5年前の総裁選のときの熱気を思いだすほどの多くの人々が小泉遊説に熱狂した。演説の内容は殆どが郵政民営化である。どこの遊説のシーンを切り取っても郵政民営化である。金太郎飴である。連日連夜、小泉が郵政民営化を遊説で説く映像が視聴者にすり込まれていく。 企画・脚本・演出・主演、小泉純一郎 2005年の総選挙は小泉純一郎が企画・脚本・演出・主演をした舞台であった。 主役も演じるプロデューサーとしての小泉を支えているのは「思い込みの強さ」である。 「成りきる」強さを小泉はもっている。 強いメッセージ性の基本は一貫したメッセージを何時でも、何処でも発信し続けることができるか否かにかかっている。人はメッセージを四六時中発信している。言葉だけではない、行為そのものがメッセージを発信している。24時間、一貫したメッセージを発信することは至難の業である。ある意味24時間主役を演じなければならない。シナリオを書く、役者を決める、舞台を設定する、そして自ら演じる。小泉劇場と言われる所以である。 小泉純一郎というひとりの政治家は小泉流メッセージ力学で2005年の総選挙で何かを動かした。この“力”の本質は何であるのかを検証することがこれからの課題である。 この“力”を使える者は、その目的によっては救世主にもヒットラーにもなり得るのである。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質6:安土城・ビジョンの展示場

    広辞苑には「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」とある。この定義からすると安土城は、まるで城らしくない。何しろ信長は安土城を一般に公開しているのだ。 キリスト教宣教師、ルイス・フロイスの「日本史」によると、貴賎を問わず、多くの人々が安土城の「見学ツアー」なるものに参加したという。 「(信長は)すべての国に布告を出させ、男女を問わず何びとも幾日かの間は自由に宮殿(本丸御殿)と城を見物できる許可を与え、入城を認めた。諸国から参集した群衆は後を断たず、その数はおびただしく、一同(宣教師)を驚嘆せしめた」(『日本史』) 軍事施設は秘密を旨とする。だとすれば一般公開など正気の沙汰ではない。だが、視点を変え、安土城を信長のビジョンの一大シンボルだと考えれば、一般公開はすんなりと腑に落ちる。この何とも不可思議で魅力的な建造物に託した信長の思想も見えてくる。そうした観点から安土城を見直してみよう。 安土城の西側に広がっていた城下町と天主(天守)のある城の中枢部とは百々橋口道という一本の道で結ばれていた。その途上に総見寺という寺が建立されていた。軍事施設である城に寺を建立すること自体前代未聞である。人々は登城する際には、この寺を通過し、天主のある本丸に登ることになる。そして、この総見寺には、信長の代わりとなる神体である「盆山」と称する石を安置した。 フロイスの「日本史」によると、信長は、総見寺を訪れた人には御利益がある旨の掲示を掲げた。 「富者にして当所に礼拝に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低き者、購しき者が当所に礼拝に来るならば、当寺院に詣でた功徳によって、同じく富裕の身となるであろう。しかうして子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は、ただちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう」 当時、民衆に対して最も魅力的なメッセージを発信し、その行動をコントロールしていたのは、石山本願寺を頂点とする一向宗(浄土真宗)である。一向宗も人々に「先」を見せることによって人々の行動を駆り立てていた。それは来世での御利益である「極楽往生」である。 百年以上も続いた乱世の中、多くの人々がこのメッセージに共感し、極楽往生を願って命懸けの一揆に参加した。一方、信長が建立し、神体である盆山を置く総見寺は、現世での御利益を強調した。信長が目指す「天下布武」によって、現世での御利益が実現するといったメッセージを、貴賎を問わず、安土城を訪れた多くの人々に発信したのである。 7層構造の安土城天主においても、信長は同様の仕掛けを行っている。 天主の復元調査からは、第6層目が仏教空間として設計されていたことが分かる。らせん状の二重構造で、まず外側の廊下をめぐってから内側の空間に入る回廊構造になっている。外側の壁には、餓鬼や鬼など地獄の様子が、そしてその先は二匹の龍が措かれている。内側の空間は金色に装飾され、釈迦とその10人の弟子を描いた「釈迦説法図」が掲げられている。 地獄図が「戦乱の世」を、龍が「信長による天下布武」、内側の空間が「極楽浄土」を象徴している。 「まず、地獄図によって表される戦乱の世の中がある。これは信長が登場する以前の様相である。次に龍に象徴される信長が武力をもって登場し、天下を治める。信長による天下平定がなった暁には、極楽浄土が現出する。そういう様子を、回廊をめぐることによって表現しようとしたのではないだろうか」(『信長の夢「安土上」発掘』) 信長の真骨頂は、「天下布武」の基本メッセージ(=信長が武力によって天下を統一した際には豊かな平和な世になる)を安土城下町の賑わいを通じて人々に実感させたことにある。交通の要衝にある安土に楽市楽座を導入する。その上で、様々な職能分野や芸能における最優秀者を表彰する「天下一」政策を展開。安土城見学ツアーを実施し、相撲大会などのイベントも開催する。こうした諸政策によって、安土に多くの人々を集めた。 その結果、安土城下町は当時のパリとも匹敵するほどの賑わいを誇ったと言われる。この地を訪れた人々は安土城を見ることによって、「天下布武」の意味を認識し、安土城下町の賑わいの中で平和で豊かな社会への方向性を実感した。 安土城は信長のビジョンの総集編である。信長のすべての「想い」が実感できる壮大な展示場である。人は経験によってその意識や行動が変る。これが信長の戦略コミュニケーションの発想である。安土城は信長のビジョンの広告塔として機能し、安土城下町は信長のビジョン実現のもたらす成果物を実際に味わい経験することができる巨大試食会場の役割を担っていた。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質5:情報専門家集団

    戦略コミュニケーションの発想で大切なことは情報の「収集」と「発信」をどう考えるかである。 一般的に情報の収集と発信は別のものと考えられがちである。情報収集というと「状況分析のために」という発想から情報収集が行われている。これを「発信のために」情報を収集するという発想に変えることが戦略コミュニケーションの発想である。情報の収集と発信を一体として捉えることができる感度である。この発想がメッセージ力を飛躍的に高める。 リーダーは誰にもまだ見えない先を読み取り、未来に向けた明解などジョンを示さなければならない。そのためには、システマチックに情報を収集し、分析し、システマチックにメッセージを発信するための専門家、組織、ネットワークが必要となる。 信長の作り上げた組織とネットワークを腑撤すると、いかに彼が情報の収集・分析・発信を重視しており、自らの「想い」を分かり易いメッセージに置き換え、それを効率よく社会に伝播させるかを者え抜いてきたかが分かる。 信長のCIA(中央情報局)ともいうべき情報のプロ集団と分厚い情報ネットワークを分析してみよう。この情報組織は大きく分けると以下の4つに分類できる。 組織化された近習団 表現のプロ集団 茶頭 その他のネットワーク これらそれぞれについて、更に詳しく見て行こう。 1 組織化された近習団 信長は早い時期から近習団を機能的に組織していた。他の戦国大名と比べるとその規模は大きく、多機能集団の体をなしていた。その役割は、単に日常の世話をする秘書的な業務に留まらず、信長の手足、目耳、そして頭の役割を担っており、以下のような機能をもっていた。 信長への取次ぎ機能 信長が発行する朱印状(命令書)に添える説明文である副状の発給機能 信長の意を伝える使者機能 信長の意志を伝えるだけでなく観察も行う検察機能 信長の重要来客への接客機能 堺、大津、草津などの重要拠点における代官機能 各種プロジェクトの企画、管理、遂行を担当する奉行機能 信長は巨大な軍団組織を手足のように使った。信長軍団の主力が5つに分かれた方面軍あったことは、別段で述べた。方面軍は羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家らの部将に率いられた自立性の高い垂直統合組織であった。企業組織にたとえれば利益・収益センターとしての事業本部に相当する。これに対して、信長直轄の近習団は横断的機能を持っていた。企業で言えば、社長室、企画室、広報室といった役割である。各方面軍に分かれた信長軍団が、信長の意思をよく体現し、戦功を重ねられた一因は、方面軍に横串を通す神経系の役割を担った近習団の優秀さに求められる。 2 表現のプロ集団 信長は自分の理想や想いを文章や絵画、建築などの形に表現するプロを数多く起用した。 信長のビジョンを「天下布武」という言葉に表現した臨済宗の禅僧である沢彦宗恩、信長の世界観を安土城の襖絵に描いた狩野永徳、信長の考え、視点を文章化した武井夕庵…。これらの人物は、配下の有力武将に勝るとも劣らないほど、信長の天下事業にとって重要な役割を果たした。 彼ら以外にも、信長ビジョンの最大の象徴である安土城の構築には最先端の技術、技量をもった無数の職人、石工、大工、が動員された。これらプロフエショナル達をフルに動員することによって信長は自らの意志を分かり易い形で、外部に向けて訴えることができたのである。 3 茶頭 信長は茶会を情報収集、発信、そして分析の「場」とした。 茶頭とは簡単に言えば、茶の湯の指南役である。その茶頭は、単に茶会を取り仕切るだけでなく、茶会の「場」での情報のやり取りの中で、信長に対していろいろな視点からのアドバイスを行った。信長の茶頭を務めたのは、津田宗及、今井宗久、千宗易らである。この3人は日本最大の商都堺の有力商人であり、情報感度という点では当代トップクラスの人材でもあった。当時の堺は、日本最大の内外情報の集積地であった。信長は堺衆のその秀でた分析力を、茶頭という形でおおいに活用したのだ。 そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。 間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。 ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。 信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。 信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。 変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。 第2の要素は「ビジョンの提示」である。 先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。 この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。 信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。 どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。 信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質4:人を動かす仕組み作り

    どんなに時代の先が見通せても、どんなにビジョンが素晴らしく表現され、理解されやすくても、その実現に向けて必要な人々の意識が変革され行動変化が起こらなければ、何事もおこらない。いかにビジョン実現に向けて人々の行動変化を仕掛けるか。何時の時代においても、リーダーシップを発揮する上で、もっとも大きな課題である。 戦国時代、信長の家臣団ほどその意識のベクトルが統一された組織は見当たらない。「天下布武」という1つのビジョンに向かって、末端から中枢まで組織全体が足並みを揃えて突き進んでいるという印象が強い。 信長の家臣団は戦国時代において最もワーカホリックな集団であった。 その忙しさたるや他の戦国軍事組織の比ではない。特に、1567年美濃攻略後、上洛戦を開始してから1582年に信長が本能寺で倒れるまでの15年間、将士から足軽に至るまで東奔西走の日々であった。彼らをひたすら信長のビジョン実にこ駆り立てたものは何だったのだろうか。 1つには、他の軍事組織と違い信長の軍団が戦闘専業集団であったことが挙げられる。他の戦国大名の戦闘集団が、農件業にも従事する国人層から構成されているのに対して、信長の戦闘集団はただ戦うことだけに集中すればよかった。 2つ目に、組織の中枢から末端に至るまで、信長のビジョンの実現が自分たちにとってどのようなメリットがあるのかを実感していたという点が指摘できる。「天下布武」が単なる能書きではなく、その実現に向けて実績を残せば、確実に出世ができる、経済的にも豊かになれるといった実質的利益が伴っていた。身分の貴賎は問わない。年功も不問。木下藤吉部、滝川一益など、出身さえ定かでない新参者でも、信長のビジョン実現に貢献すれば、どんどん出世していく。信長家臣団の全構成員はそうした姿を、自分に重ねられた。 しかも、信長の期待に応えた者への報酬は幾何級数的に増える。他の戦国大名の報酬体系が、年に数%のベースアップを基礎とする「伝統的日本企業型」だとするなら、信長組織のそれは、ストックオプション(自社株購入権)によって年収が何十倍にもアップする可能性がある「アメリカンドリーム型」と言えるだろう。 当時の報酬の基本形態は「土地」である。「土地」は幾何級数的には増えない。いくら信長組織が当時ダントツの成長率を誇っていたとしても、新たな「土地」を獲得していくために掛かる時間、労力、コストを考えると「土地」だけを原資にしては、この高報酬体系は維持できない。 信長の真骨頂は、原資を創り出すための価値基準を多様化したことにある。信長が提示した新たな価値の1つが「銭」である。「土地」に依存した原資確保の仕組みから「貨幣」をベースとした原資獲得の仕組みに大きくシフトさせることで、他の戦国大名にはなし得なかった魅力的な報酬体系を実現した。 信長は「銭」の供給という面では、金銀の鉱山開発の展開、決済手段としての金銀の普及、選銭令による流動性の増大などの施策を打っている。「銭」の需要面では、楽市楽座の導入、関所の撤廃などの経済政策を実施している。 また、信長は茶の湯と茶道具にも、貨幣と同等あるいはそれ以上に魅力的な価値を付与した。信長はその武力と財力で、名品の茶道具を狩り集めた。しかし、部下が自前で茶の湯を行うことを固く禁じた。これによって、信長家臣団の中では、茶の湯と茶道具の価値がインフレーションを起こす。そのうえで、武功を立てた者を茶の湯に招き、特に功の高かった者には、茶道具を与え、茶の湯を主催する特権を与えた。 天正10(1582)年の甲州遠征で功績高く、上野(今の群馬県)と信濃二群を与えられた滝川一益などは、一国一城の主になったことよりも、信長に拝受を願っていた茶入れ「珠光小茄子」が与えられず、京から離れ茶の湯の楽しみを奪われたことに大いに気落ちしたという。名物の茶道具は信長の深謀によって、一国にも勝るほどの価値を持ったわけだ。 そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。 間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。 ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。 信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。 信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。 変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。 第2の要素は「ビジョンの提示」である。 先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。 この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。 信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。 どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。 信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質3:ビジョンの提示

    信長ほど自らのビジョンを明確に打ち出した戦国部将はいない。 「天下布武」と刻まれた印判は、信長の意思、志を内外にはっきりと示している良い例である。ちなみに、他の戦国部将の例を見ると、上杉謙信の印判は「地帝妙」で、「地蔵、帝駅、妙見」といった宗教的意味合いを持ったものだった。北条氏綱のものはr禄寿応穏」。その意味は「天与の恵み、長寿、まさに穏やか」である。これらは、自らの方針を説明するというよりも、神の加護を期待する言葉、あるいは祈願の言葉と言える。 印判は「天下に武政を布く」という明らかなどジョンの表明になっている。 永禄10(1567)年、美濃平定を終え、本拠をそれまでの小牧山から、美濃斎藤家の主城、稲葉山城に移転した時から、信長は「天下布武」の印判を使い始める。同時に、稲葉山城下の「井の口」を「岐阜」と地名変更している。これは、周の文王・武王が岐山に拠って股を滅ぼし、天下統一を果たした故事にちなんでいる。「阜」は丘の意味である。すなわち、この新しい本拠地を日本の岐山として、ここから我が天下統一が始まるという信長の意思が伝わってくる。地名もビジョン表明の手段にしたわけだ。 信長の御旗(本陣に立てる巨大な旗)は「永楽銭」である。当時、全国で流通していた宋銭だ。 戦国時代、御旗には家紋をあしらったものや、軍神の名前を表記したものが多く見られる。九州の島津氏は家紋を御旗にしている。毛利氏は家紋に、軍神の名を表述してある。 戦いの天才と呼ばれた上杉謙信は軍神毘沙門天の「毘」を御旗のトレードマークとし、ライバルの武田信玄は中国の兵法書「孫子」から取った有名な「風林火山」を御旗とした。 信長がなぜ「永楽銭」を御旗としたのか。家紋でもなければ、戦いに強そうなシンボルでもない。「永楽銭」は当時最も流通していた銅銭である。金銀のような素材価値はない。中央政府によってその流通が保証されたものでもない。しかしながら、なぜか交換価値を持った銭として全国的に認められていた。当時はまだまだ物々交換が幅を利かせていたし、米も交換価値として使われていた。そうした中で、コンパクトで持ち運びができる永楽銭は全国スタンダードの極めて便利な貨幣であった。 信長が永楽銭を自軍のシンボルとしたのは、1つには貨幣経済に対する意識の高さの表れだろう。楽市楽座の創設や開所の撤廃などの商業・流通振興策によって、領国の富裕化を図った信長は、他の戦国大名に先駆けて、兵力と農民を切り離す兵農分離に成功した。人々が土地に至上の価値を置き、配下武将への恩賞も土地を基本とした時代に、信長は商業がもたらす膨大な富によって、〝富国強兵〝を図ったのだ。いわば、貨幣経済を支える永楽銭は、自らの国家経営の方向性を示す格好のシンボルだったと言える。 また、「全国で通用するスタンダード」という永楽銭の性格は、「普遍性」に通じる。戦国大名が割拠する時代状況の中、信長は「永楽銭」を旗印のシンボルにすることによって「われとわが思想こそが(永楽銭と同様)全国津々浦々のスタンダードになる」といったメッセージを込めていたのかもしれない。今で言うならば織田軍は「グローバル・スタンダード」を標榜したことになる。 安土城も、壮大なメッセージ発信装置と言える。 信長の創った安土城とは「見せる城」であった。あたかも、能舞台で辛苦舞を舞うがごとく、信長は安土城を自らのビジョンを演出する「舞台」として考えた。 安土城は、多くの人々の度肝を抜く威容を有した。天にそびえ立つ7層の吹き抜け構造の「天主」、京都の清涼殿に似た荘厳な本丸御殿、金箔をふんだんに使った装飾、狩野永徳を中心とする当代一流の絵師による絵画、大手門から本丸へ向かって一直線に伸びた幅6m、長さ180mの道、当時は先端技術であった石垣で囲まれた構造物、仏教のみならず、道教、儒教、キリスト教などを包含した宗教空間の設置(総見寺、地下1階の宝塔、天主の6、7層階の宗教装飾)、など、安土城を見た人々は信長が標榜する「天下布武」の向こうに、安土城の名前の由来である「安楽浄土」を暗示させる何か新しい世界の広がりを感じ取ったに違いない。 信長は安土城を舞台として様々なイベントを行った。1581年のお盆祭りの際には、数万の提灯で安土城を飾り、琵琶湖に松明を持った無数の船を浮かべた。さながら、1933年にヒトラーが高性能サーチライトを無数のナチス党員に持たせ、演出させた、史上有名な「光の大聖堂」のごとくである。 また、1582年、信長は正月には前代未聞とも言うべき安土城の有料見学ツアーなるものを実施し、一門衆、隣国の大名、部将、安土城下の庶民に城内を公開している。 こうした、言語・視覚的シンボルを通じたビジョンの表現以外にも、信長は人事政策や報酬制度、あるいは戦争の方法などにおいても、自らの信条や理想を強烈に発信している。それについては、また別段で詳述したい。 印判から城まで、あらゆるものにメッセージを込め、伝達メデイアにしてしまう信長の戦略コミュニケーションの発想は天性のものであるとしか言いようがない。...

  • (コラム)信長のリーダーシップの本質2:先を読み取る力

    信長自信がひとつの大きなセンサーであった。時代の流れを鋭く感知する高性能センサーである。自分の体を具体的事象の真っただ中に置き、五感どころか第六感までもフル稼働させ、変化を直接感知する。「現場」に出向き、「現物」に接し、「現実」を知る。「現場」「現物」「現実」のいわゆる「三現主義」を徹底、あらゆる事象から貪欲になんらかのメッセージを嗅ぎ取った。 信長の事績を伝える『信長公記』に「蛇がへの事」という逸話がある。家臣の佐々成政の居城の近くの池に大蛇が出るという噂が立った。「つらは、鹿のつらの如くなり。目は星の如くひかりかがやく」という大蛇の探索を思い立った信長の行動は、彼の「情報に対する態度」をよく表している。 信長はまず、人を集め、桶、鋤、鍬を持たせ、一斉に池の水を汲み出させた。4時間ほどすると池の水が七分まで減ったが、その後水位が変わらない。そこで、信長自ら脇差をロにくわえ水の中に入っていった。しかし、大蛇は見つからず、今度は水練の達者な鵜左衛門という者に水中を調べさせた。結果、やはり大蛇は見つからず、信長はさっさと居城である清洲に帰ってしまう。 文芸評論家の秋山駿氏は、その著書『信長』の中で、このエピソードに触れ、こう記している。 「信長は単身先頭を駆ける。『よく水に鍛錬したる者』を先にしない。自分がした事の後を確かめさせる。おそらく信玄、謙信、秀吉、家康は、そうはしない。順を逆にする」 ここで面白いのは、事実を確認する信長流のやり方である。水汲み作戦がうまくいかなくなると自ら水中に飛び込み調べる。再度、専門家に最終確認をさせる。自らも直接確認するが、専門家に最終確認させる詰めの厳しさ。秋山氏は「信玄、謙信、秀吉、家康は、そうはしない。順を逆にする」と記しているが、多分、彼らは自ら体を張ってあとで調べるということはないだろう。生半可な情報の把握は命取りになる。信長はここが徹底している。状況把握に対する慎重な態度である。この慎重さが物事の裏にあるメッセージの読み取りを可能にする。 ほかに現場の第一線に身を置くということでは、信長はしばしば戦闘において陣頭指揮を執っている点が挙げられる。 際立った陣頭指揮の例としては、1560年の桶狭間の戦いがある。 信長27歳の時のこの戦いは、当時、戦国大名として最強を誇り、「海道一の弓取り(=戦上手)」と呼ばれていた駿河、遠江、三河の太守の今川義元が上洛のため、その途上にある尾張へ本格的侵攻を開始したことに端を発する。1560年5月12日、義元は居城である駿府を発ち、尾張へと進軍、その総勢2万5000。5月18日には既に今川勢は清洲の最後の防御ラインである鷲津、丸根の両砦への攻撃を準備するまでに尾張への侵攻を完了していた。この間、信長は清洲にいて動かなかった。戦線の情報収集と分析、対応策を検討していたものと思われる。ところが、19日未明(午前4時頃と言われている)、突然、清洲城を出発する。 前述の大蛇探索の際に信長が取った行動と重なる。水汲みでは埒が明かない、限界がある。もっとしっかりとした情報を把握するために、自ら一歩踏み込む行動パターンである。もはや、清洲城にいたのでは、いろいろな情報が錯綜し、意思決定するための状況把握に限界がある。だから、自らをセンサーの固まりにして、現場に飛び込んでいくしかない。そして、現場で刻一刻と変化する情報に直接接し、判断していくという行動を信長は取った。清洲城を飛び出した時は、状況把握レベルは50%にも達していないかもしれないが、とにかく現場、現実、の中を走り抜く中でそのレベルを60%、70%と上げていけばよい、という割り切りである。 信長が清洲城を出発したのが午前4時。義元の本陣に接近し、戦闘を開始した時刻は午後の1時頃である。この間、約9時間という時間の流れの中で、信長は領内全域に放っておいた多くの間者からの報告に基づき、確実に状況把握のレベルを80%、90%と上げていった。 午前10時、信長はいったん、善照寺という義元の本陣が休息を取っている田楽狭間から3.5kmの場所で兵をまとめる。その数約2000。この段階では、まだ義元の本陣の位置は信長には分かっていない。このあと、「今川義元殿、ただいま田楽狭間にあり」という報告が梁田政綱からもたらされる。この一報が信長の状況把握レベルを一挙に90%以上に上げ、桶狭間の戦いでの勝利に導いていく。 刻一刻と変化する事象の中で、報告などの間接情報に依存していると状況把握力の低下、ひいては的確な意思決定に大きな影響を及ぼす。変化を敏感に察知する、そしてそこから状況変化を読み取る。そのために、自らを変化が起こっている現場にさらす。信長は終生、この原則を貫徹している。変化を読み取るためには、間接情報だけをいくら蓄積させても何も見えてこない。第一線の現場で絶えず情報の流れに直接身を置くことによって、混沌とした情報の集積の奥にある変化の本質を見抜く「カン」が育つ。あらゆる事象からのメッセージを読み取る力とはこの「カン」どころを磨くことでもある。このメッセージ感度をたかめることこそ戦略コミュニケーションの発想の基本である。...

  • (コラム)信長のリーダシップの本質1:戦略コミュニケーションの発想

    作家、藤沢周平は「信長ぎらい」と題したエッセイにこう記す。 「嫌いになった理由はたくさんあるけれども、それをいちいち書く必要はなく、信長が行った殺載ひとつをあげれば足りるように思う」 山中の堂塔伽藍をことごとく焼き払い、僧俗3000~4000人を虐殺した比叡山の焼き討ちや、男女2万人を焼き殺した長島一向一揆討伐など、織田信長は日本史上類例のない大量殺教を行っている。こうした残虐な殺戟行為ゆえに、信長には熱心なファンとともに、少なからぬ「信長ぎらい」がいるのも確かである。 信長の大量殺動行為については、稿を改めて考察するとして、「信長好き」も「信長ぎらい」も、信長を独断的なリーダーと見る点では一致する。桶狭間の戦いに見る果敢な行動力、長篠の戦いや兵農分離、楽市楽座に見る独創性、将軍廃位や蘭音待切り取りなどが象徴する専制性。強大な恐怖と畏敬によって有無も言わさず周囲を従わせる専制君主というのが、現代日本人が持つ信長像の最大公約数だろう。 しかし、と考えざるを得ない。恐怖のみによって人を動かせるだろうか。一時的には可能だろう。だが、群雄が割拠する戦国の世に、一代で日本の中心部のほとんどを席巻し、政治・経済・文化のすべてに一大変革をもたらした偉業は、信長単独の力では不可能である。そこには家臣、同盟者、領民、朝廷など数多くの利害関係者(ステークホルダー)の理解と行動が必要だったはずである。 例えば、「兵農分離」と「専制的意思決定」を考えてみよう。信長の独創と言われる「兵農分離」だが、戦国大名なら誰しも、農民と兵士を切り離し、農繁期にも戦える常設軍を創設することは悲願だったはずだ。また、譜代の家臣や領内の有力国人層に諮ることなく、自らの独断によって内政や軍事を実施できれば戦国大名にとってこれほどありがたいことはない。ところが、信長以外のどの大名も「兵農分離」や「専制的意思決定」を実現し得なかった。 戦国時代、富と力の源泉は何より土地であった。兵士たちは自らの土地を守るため、そして、新たな土地を恩賞として得るために戦った。商業が発達していた尾張にしても、基本は土地本位制であった。そうした中、兵力と土地を切り離す難しさは現代人の想像をはるかに超えている。 信長が単独ですべてを決めるという意思決定方法も、ある意味暴挙とさえ言える。武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就などの他の戦国大名たちは、譜代の家臣や有力国人層の合議制によって、領国経営を進めてきた。かつての守護・守護代を下克上に乗じて退けた国人層の頭目格に過ぎない戦国大名には、一般に考えられているほどの専制的な権威はなかったからだ。譜代・有力国層は大名と対等とはいかないが、かなり接近した発言力を有していた。それゆえ、大名といえども、重臣たちの理解を得られなければ、物事を決められなかった。逆に、彼らの意向を無視し、反発を招くばかりなら、君主の地位を追われ、殺されることすらあった。武田信玄の父親である武田信虎が独断的だという理由で家臣たちによって駿河の今川家に追放されたことなどが良い例である。 そうした、戦国の時代状況を視野に入れれば、信長といえどもけして恐怖のみをベースに事業を推進することなど不可能であると分かる。美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を遂げた。それを支えた家臣団の働きぶりは、ワーカホリックそのものである。当時の常識からいけば、到底、受け入れがたい独創的な施策の下、家臣たちは死にものぐるいで働いた。だとすれば、そこには、必ずダイナミックな意識変革がなければならない。そこには信長のいろいろな工夫があったに違いない。信長の理想の実現に向けて家臣をはじめとする多くの利害関係者(ステークホルダー)の意識をぐっと引き寄せる工夫が。 間違いなくそれは命懸けの工夫だったはずだ。父信秀の死によって尾張半国を受け継いだ信長は、18歳にして四面楚歌の状況に投げ出された。敵は外だけではない。「うつけ」の言動を重ねる信長を君主に頂くことに不安と不満を抱く重臣たちは、叛意をあらわにした。 ひとつ間違えば寝首を掻かれかねない厳しい状況の中から、信長はどのようにして多くの人々の意識を変え、多くの人々を信長のビジョン実現に向けて行動に駆り立てたのか。 信長のリーダーシップの本質にはコミュニケーションを意識変革・行動変革を起こす力として、したたかに使いこなす信長の戦略コミュニケーションの発想が息づいている。 信長のリーダーシップを構成する要素を3つに大別して、考察を加えたい。第1の要素は「先を読み取る力」である。 変革期のリーダーに求められる大事な資質の1つが「時代の流れと動きを敏感に察知すること」である。信長は、あらゆる出来事を細かく観察し、一見パラバラに見える事柄を独自の視点から1つに結びつけていく「独創力」と「構想力」を備えていた。これによって的確な時代認識を得、時代の先をある程度見通した。それゆえ、多くの人にはまだ見えていない未来を予見したかのような行動が可能だった。これは言葉を変えると、あらゆる事象や相手の動きからメッセージを読み取る力を意味する。物事や事象は様々なメッセージを発信している。それらのメッセージを読み取り、意味付けして、ひとつの方向性を見極めていく力が「独創性」であり、「構想力」である。その中から新たなビジョンが生まれる。このような高いメッセージ感度を持つことが戦略コミュニケーションの発想に向けての第一歩である。 第2の要素は「ビジョンの提示」である。 先を読み取った後に何が必要になるか。それは、時代認識と将来仮説に基づき、自分の思いや戦略などを人々に理解できるようにビジョン化することである。人々の意識を変える上でもっとも重要な要素は「先を見せる」ことである。自分たちの将来がどう変わっていくのか、そのときどのような課題にぶつかるのか、それを乗り越えるためにはどうすればよいのか、信長のビジョン実現がこれらの課題を乗り越える上でどのような意味をもつのか、などのメッセージをしっかりと人々の意識の中に様々な表現手段を用いて打ち込むことが意識変革の鍵を握る。あらゆるものをメッセージ化する、そして発信メデイアとして捉える視点が戦略コミュニケーションの発想につながる。 この点で信長は稀有の才能を発揮した。「天下布武」を初めとするキャッチフレーズを発明、独自の旗印、戦装束の採用、厳粛な規律の徹底など織田軍の見せ方を工夫、安土城築城、二条城築城、内裏修理工事、領内の道路建設などの建造物を広告塔化、馬ぞろえ(騎馬行進)、数万の提灯を用いた盆祭り、などの多くのイベントを開催、更には長篠の戦いにおける圧倒的な勝利や比叡山の焼き討ちなどの実績や事実をしっかりと意味づけて発信するなどあらゆる素材を組み合わせ、多様な方法を通じて自らのビジョンを表現・演出したのが信長である。そこには優れたクリエーターやプロデユーサーとしての信長の真骨頂が垣間見える。 信長のリーダーシップを支える最後の要素は、「人を動かす仕組み作り」である。 どんなに時代の先が見通せても、どんなに素晴らしく、分かりやすいビジョンを提示しても、その実現に向けて必要な人々の行動が変化しなければ意味がない。意識変革は行動変革につながらなければ意味をなさない。人々が信長のビジョンを理解するだけでなく、それを受け入れ、行動として実践することが重要なのである。そのためには信長のビジョンの実現につながる人々の行動を促進させる仕組みづくりが鍵となる。周囲の様々な仕組みからどのようなメッセージを受けているかが人々の行動を規定する。あらゆる仕組みを意識変革のコミュニケーション・チャネルにする。ビジョンによって「人々の意識を囲い込む」だけではなく、仕組みによって「人々の行動を囲い込む」。これが戦略コミュニケーションの発想である。 信長は仕組み作りの天才である。機能別組織の導入、兵農分離を前提とした常備軍の設立、方面軍団制の確立、与力制度による横断機能の強化、など家臣団編成のあり方に大きな工夫が見られる。また、人材評価の面でも革新的な工夫が施されている。例えば、土地本位ではなく銭本位による報酬体系や身分を越えた登用制度の導入などである。更には、一般の庶民を巻き込んだ仕組みづくりを通じて世間の意識の活性化を図っている。楽市楽座の実施などは多くの商業従事者に大きな行動変革をもたらしている。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論7:コミュニケーションと信長

    変化の時代とは絶えず、社会のパラダイムシフト(社会の拠って立つ基準の変化)が起こる世界である。しかしながら、人々の意識は変化を嫌う。変化の時代における混乱と混迷の原因がここにある。変革期のリーダーの使命は、コミュニケーションを通じ人々が変化を受け入れられるように意識付けを行うことにある。 信長は独断先行型のリーダーとしてのイメージが強く、人を納得させて動かすというよりも無理やり動かすタイプといった印象があるが、それは誤った見方である。信長ほど独創性の強く創意工夫を凝らす人間は、自らの想いや考え方を周りに理解、納得させられなければ、戦国時代においてはとっくに殺されている。 信長が家督を継ぎ、様々な革新の実現に着手したとき、目前に立ちはだかったものは、武田信玄や本願寺一向宗ではなく、変化を嫌う人々の意識であった。それらとの戦いの中で、信長は自らの独創性を遺憾なく発揮するために「コミュニケーション」を力、手段として捉え、自分のビジョンを示し、人々の意識や行動を変革するために以下のことを実践し目的を達成したのである。 1. 近習団を機能的に組織し、単に日常の秘書的な業務に留まらず、自らの手足、目、耳、そして頭の役割を担わせた。 2. 地下人層から公家、僧、文化人、教養人も含めた幅広いネットワークを積極的に構築し、それを利用して時代の流れ、トレンドを有機的に、体系的に把握することを心がけた。 3. 自身のビジョンである「てんかふぶ天下布武」を表現(コンセプト化、文章化、描写化)するプロとして禅僧のたくげん しゅうおん沢彦宗恩やかのう えいと狩野永徳、たけい ゆうあん武井夕庵など自分の想いを表現できる専門家を起用した。 4. 茶会を情報収集、発信、分析の「場」として利用し、その「場」での情報のやり取りを通して、自分に対する様々な視点からのアドバイスや情報の分析業務を行った。 5. 言語や視覚的なシンボルのみならず、様々な政策や制度を導入、多くのイベントや事象を演出、さらには伝達方法にも心を砕き、自らの行動を通じて「天下布武」の実現によって人々が何を享受できるかを訴えた。そして、それを示すと同時に実感させることに腐心するなどメッセージ伝達の工夫をした。 このように、信長は様々な情報収集、分析、発信の一連の業務を遂行する専門家集団と外部ネットワークを組織化し、また、自分の発想をかなりシステマチックに検証し、そのビジョン化、及びメッセージ化を行える仕組みを整備する事により自らのビジョンを具現化したのである。 人類がこの世に誕生して以来、信長をはじめとするリーダーと呼ばれる人達は何らかの方法で、創意工夫をこらし、人々の意識変革を起そうと努力してきた。彼等は軍事力や経済力だけではなく、それらの力を背景に強烈なメッセージを発信し続け、人々の意識を変革、新たな時代へと導いた。それは多くのリーダーたちが「コミュニケーション」という人類社会誕生以来、空気のように人間にとって不可欠なものを「コミュニケーション力」として手段化することにより自分が掲げたビジョンを達成してきたのである。 #6666�P a�_/�L'white'>現状分析・把握(三好勢と野田/福島の砦)――船は必要だ、大砲は移動にお荷物だ ↓ 試作とテスト(問題確認と対応策)(竹生島攻撃)――船での大砲は移動性が良い 大型船の建造テスト ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(長島一揆)-大量投入による効果確認 ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(毛利水軍にやられる)-火器が弱い、 装甲の必要性、大型化が必要、破壊力の増大 ↓ 最終モデルの完成(鉄甲船の完成)――毛利軍に大勝  と分類整理できる。 また信長の偉大な所は武士の指導を任さず、現代の物の製造になくてはならないスペシャリストを導入している事が大きなポイントである、鉄砲鍛治にしても近江の国友鉄砲鍛治に全面的に任せ、鉄甲船の建造も当時海賊だった伊勢の九鬼義隆をプロジェクトリーダーとして登用し作らせたとあるが、彼の元には船の専門家である大工・岡部又右衛門がスペシャリストとして存在し製造技術は任せていた、この様に全てを任せてやらせる事は現代では当り前だが当時としては画期的な仕組みであったのだ、すなわちプロジェクトリーダーの下に個々のプロジェクトスペシャリストを配置しそれらの総合開発力を発揮している、もちろんLPL(Large Project Reader)は信長自身であった。 信長の技術評価システムの大成例は鉄甲船だけではなく、城の築城にも見られる、信長が残した安土城は余りにも有名であるがここにおいても前に記した様な評価システムがしっかりと存在している事を次に述べたい。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論6:信長における評価指標 – 3

    信長における評価指標 – 3 信長は技術屋だった、そう考えると色々な事が巧く当てはまって来る、当時、そのような分類は存在していなかったがどう考えて見ても信長は技術屋のマインドを持っていたと考えた方が良いようである、現在でも技術屋のトップが成功している例はソニーやホンダなど数多いが信長はその先駆者でなかったかと思われる。 技術屋とは経験の蓄積をどんどん成長してゆくものだが信長の場合前章で書いた鉄砲の例ではテスト・試作を重ねて要件基準の完成を行い、安宅船の例では同様にしっかりした評価基準を決め、さらに現代の開発の必要不可欠なプロジェクト制を敷き専門家に任せた物作りをしている、またそれらの技術の蓄積を評価システムとして大成させている、即ち1/1000mmも間違えも許されないきめ細かでシステマチックな技術屋マインドの考え方が随所に見られるのである。 当時戦国武将の攻めと守りは城が対象であった、城が落ちる事は負けを意味し城を作る事は自分の権力を世に示すものであった、すなわち城は本人の存在を世に示すものであり誰もが一度は自分の城を築く事を夢見ていたのである、これは現代でも男の願望だ。 信長の場合は弘治元年(1555年)に信友を陥れ最初に手に入れたのが清須城であるがこれは自分の意思は全く入っていない城の確保であった。信長が初めて自分の意思をいれて城を作ったのが永禄6年(1563年)の小牧城であった、ここは信長が尾張の統一を目指して首都にふさわしい地点として選んだといわれ首都機能を想定して町作りもされた、といわれている。 しかしおそらく信長はその成果(城)にかなりの不満があったのだと思われさらに永禄10年(1567年)に美濃稲葉山から斎藤竜興を追い落とし居城を小牧から濃尾平野を一望できる金華山に移して岐阜城とした。 これまでの信長が手がけた城の遍歴を見てみると、城の持つべき色々な要件を一つづつ技術の蓄積、経験の積み重ねとして完成させて行った。 その要件とは 城は支配地域を統治する戦略上の拠点でなくてはならない 城は権利の象徴で簡単に真似の出来ない物でなくてはならない、 城は建築や内装が豪華で粋を尽くした物でなくてはならない 城は交通の便が良くまた交通の要所でなくてはならない 城はいざと言う時は攻め難く守り易いものでないといけない 城は高い所から見下せ天下を治めるイメージがなくてはいけない 城は住民の誇りでなくてはならない、そして慕われなくてはいけない 城はその時点の最高の技術・資産で建てなれなければならない 城は領土の出来るだけ中央に位置しなければならない 城は砦としての価値だけでなく住むのにも快適でなくてはならない、、等 信長はこれらの建築要件を完成するのにさらに場所を物色していた、そして安宅船の活躍などで水という地の利の良さが要件として大きくクローズアップしてきていた、このため信長は元亀元年(1571年)に明智光秀に琵琶湖の南端に坂本城を築かせており、さらに天正3年(1575年)に羽柴秀吉に琵琶湖の北側に長浜城を築かせ拠点としての城を確保させた、そればかりでなくこれらの城の築城に際しては後の築城を考慮して石積みの技術集団である「穴太衆」を使い石積みの技術の研鑚に努めさせた、これが後の安土城のあの延々とした石積み技術「穴太積み」の集大成につながってきている。 信長は自分の持つ技術屋魂の総力をあげて今まで培って来た技術評価システムに基づいて作り上げた立地要件、構成要件等すべての要件を取り入れ安土城の構築に集大成させた。その成果としての城の建築様式は後世のあらゆる方面に多大な影響を与える存在となったのだった。 すなわち、権利の象徴として建物中に金箔をめぐらし屋根瓦にも貼り付け、すべての宗教の部屋を作りそれを下階に控えさせ、朝廷などの居住場所も自分の下方に配置させた。 交通の便については琵琶湖という水利の要所を抑えることによって日本海側と瀬戸内・太平洋側をつなぐ交通を掌握する事を狙っている、かつ北の長浜城(羽柴秀吉)、南の坂本城(明智光秀)、対岸の大溝城(織田信澄)等の部下を配置し拠点となる場所を選んでいる。 攻め難さと天下を治めるイメージは半島状に琵琶湖に突き出した半島は天然の堀で全方向見渡せる標高180mの山頂に更に高さ24mの石垣を組みその上に30mの高さにまで五層七階の天守閣を作っている天守閣からの展望は約230mもあって十分な視界とすべての地域から見える天守閣で権利を象徴させていた。 これを作るに当たってその周りに町の自然発生も助け2年もの間この町は城を建設するための多大な労働力の温床として発展させ城下町に形成して行った、そして城が出来てゆくに従い城が住民の誇りとなる様に仕向けていった。 さらに城は最高の技術と芸術で仕上げられ後述のような当時の各界のエキスパートが集められお互いの研鑚を行いながら最高の成果を出す事に成功している。 快適性についてもその前の居城である岐阜城においては山の下に四階建ての御殿を作り内部は金碧障壁画で飾られた豪華な住まいで評価基準を作りあげ、それを安土城に取り入れ吹き抜けの回廊、住める城への変貌など、快適性についても充分経験と基準が生かされている。 このように信長はあらゆる面でその評価基準を作りそれをシステムとして完成させたのがこの安土城だった。 さらに技術評価システムを遂行する重要なポイントであるプロジェクトグループ制度も総普請奉行の丹羽五郎左衛門長秀を始めとして、PL(プロジェクトリーダー)として普請奉行に木村次郎左衛門、棟梁は岡部又右衛門、大工に中井孫太夫正吉、瓦工は一観、金工は後藤平四郎と鉢阿弥、畳刺は伊阿弥新四郎、絵師は狩野永徳・光信父子、石工頭には戸波駿河と穴太衆を起用して完全なプロジェクト制度を敷いた、これは現在の自動車開発等に見られる個別のプロジェクト制度とまったく同一であり驚異に値するシステムである。 信長が技術屋であり素晴らしい技術評価システムの恐らく最初の施行者という想定は本当だったのだ。...

  • (コラム)コミュニケーションの視点から見た信長論5:信長における評価指標 – 2

    信長は槍の改良、鉄砲製造方法の改良、鉄砲の欠点を補う使い方システムの完成などで技術評価システムに対する概念がほとんど固まって来ていた、それらの考え方を集大成する事になったのが、有名な鉄甲船の建造であった。 1576年、一向一揆の勢力が立て篭る石山本願寺に戦略物資を送り込もうとしていた毛利水軍800隻を木曽川口で待ち受けていた織田水軍300隻は、銅製の球に火薬を詰め込んで火を点じて相手に投げ込む大型の手投げ弾・焙烙火矢(ほうろくひや)の威力にものの見事に蹴散らされてしまった。 しかしこれに引き下がっている信長ではなかった、このすぐ後、当時の伊勢の海賊大名九鬼義隆に当時の安宅船に対して投影面積でも4倍も有るような新しい大型軍船の建造を命じ、わずか2年の間に6隻もの全面を2~3mmの鉄板で装甲した鉄甲船を建造させた、そして前の惨敗から2年後の1578年、同じく木曽川口にて600隻の毛利水軍を6隻の鉄甲船と小船の集団で待ち受けていた、その鉄甲船の装備はそれだけではなかった、箱造りの船首には巨大大砲が3門備えられ船腹には無数の銃眼が並べられていた。 戦いの結果は明白であった、最大の武器の焙烙火矢を全く受け付けず、かつ近寄っては船首からの巨大大砲で撃ち砕く戦術に毛利水軍はひとたまりもなくほぼ全滅の憂き目に遭ったのだった。 この信長の戦術は決してすぐに完成したのではなく、かなり以前から色々と実戦で試されテスト改良された後の産物であった、大砲に関しては1570年に彼が攝津の三好勢と野田/福島の砦で戦ったときも「数多くの物見櫓を建て、大砲を城中に撃ちこみ敵を攻めつけた」と信長公記に伝えられている、またさらに1571年の竹生島の浅井攻めでは琵琶湖に大砲の装備を付けた「囲い舟」なる船を登場させて、従来の大砲の弱点である移動性の悪さを克服し、ついで1573年に琵琶湖で長さ30間、片側100挺櫓の大型船を建造させているさらに1574年の長島一揆では数百隻の船に大砲を装備し撃ちまくったとの記録もある。 また大砲の製造法に関しても、鉄砲で得た鍛造法による砲身の製造法を応用し、当時の流行であった製造は容易だが強度的に不安のある青銅製の製法に代えて鉄製の砲身を作成していた、これにより当時としては画期的な鉄砲の弾の33倍もある750グラムの砲弾を打ち出す事が可能となったのは優れた製造技術の大成という事が出来る、しかし鉄甲船に積まれた大砲は正確な記述はないが後に家康が作ったとされる大砲(靖国神社蔵)と同等弾丸は4kgだったと想像される、いかに巨大大砲であったかがわかる、それは1574 年にすでに長島一揆で大砲が船に積まれていてそれを最初の毛利水軍の時も使われたが効果が少く惨敗の憂き目に遭ったので思い切って巨大大砲としたと推定される。 また鉄甲船に関しては西欧諸国で鉄板を装甲として使い出したのは17世紀とされているので100年以上も前に採用しているので驚異的であるが、大型船に関しては宣教師オルガンチーノから母国オランダの情報を得ていたとも言われている、そしてそれらの下地も琵琶湖を始めとした3回の海戦で得たノウハウが蓄積され改良されて集大成となったという事が出来る。 一説によると第二次世界大戦の戦艦大和もこの分厚い鉄板で守るという思想で作られたとあるが確かではない。 これを技術評価的に整理してみると、、 ニーズの掌握(情報の収集)――宣教師より大型船(ガレー船)の情報、火砲の重要性 ↓ 現状分析・把握(三好勢と野田/福島の砦)――船は必要だ、大砲は移動にお荷物だ ↓ 試作とテスト(問題確認と対応策)(竹生島攻撃)――船での大砲は移動性が良い 大型船の建造テスト ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(長島一揆)-大量投入による効果確認 ↓ 改良試作とテスト(新しい問題点確認と対応)(毛利水軍にやられる)-火器が弱い、 装甲の必要性、大型化が必要、破壊力の増大 ↓ 最終モデルの完成(鉄甲船の完成)――毛利軍に大勝  と分類整理できる。 また信長の偉大な所は武士の指導を任さず、現代の物の製造になくてはならないスペシャリストを導入している事が大きなポイントである、鉄砲鍛治にしても近江の国友鉄砲鍛治に全面的に任せ、鉄甲船の建造も当時海賊だった伊勢の九鬼義隆をプロジェクトリーダーとして登用し作らせたとあるが、彼の元には船の専門家である大工・岡部又右衛門がスペシャリストとして存在し製造技術は任せていた、この様に全てを任せてやらせる事は現代では当り前だが当時としては画期的な仕組みであったのだ、すなわちプロジェクトリーダーの下に個々のプロジェクトスペシャリストを配置しそれらの総合開発力を発揮している、もちろんLPL(Large Project Reader)は信長自身であった。 信長の技術評価システムの大成例は鉄甲船だけではなく、城の築城にも見られる、信長が残した安土城は余りにも有名であるがここにおいても前に記した様な評価システムがしっかりと存在している事を次に述べたい。...